>>>>>>盗み取ったのかな
投稿者: panda168jp 投稿日時: 2005/02/01 14:41 投稿番号: [23033 / 66577]
>1895年に日本帝国は清帝国も了解のもとで尖閣諸島を日本に編入している。<<<
了承文章があることを明示してみなよ。
台湾などを日本に割譲したが、
カイロ宣言によって、返還されることとなり、ボツダム宣言は日本の領土を、連合軍が指定することになった。
{外務卿の井上馨が、1885年10月21日に内務卿・山県有朋へ送った書簡には「熟考候処右嶋嶼ノ義ハ清国々境ニモ接近致候曩ニ踏査ヲ遂ケ候大東島ニ比スレハ周回モ小サキ趣ニ相見ヘ殊ニ清国ニハ其嶋名モ附シ有之候ニ就テハ近時清国新聞紙等ニモ我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ嶋嶼ヲ占據セシ等ノ風説ヲ掲載シ我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ頻ニ清政府ノ注意ヲ促シ候モノモ有之候際ニ付此際遽ニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置有之候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間差向実地ヲ踏査セシメ港湾ノ形状并ニ土地物産開拓見込有無詳細報告セシムルノミニ止メ国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ他日ノ機会ニ譲候方可然存候(訳注)」と書かれている。井上馨は山県有朋に対して、日本側の秘密調査を新聞に公開しないで秘密裏に行い、中国および国際的な異議・反対を避ける必要があると何度も言い聞かせている。西村捨三・沖縄県令は同11月24日、調査結果を内務卿へ上奏し、「国標建設ノ儀ハ嘗テ伺書ノ通清国ト関係ナキニシモアラス万一不都合ヲ生シ候テハ不相済候ニ付如何取計可然哉(訳注)」と指示を求めている。内・外務卿は同11月25日、連名で「目下(国標)建設ヲ要セサル儀ト可心得事(訳注)」 と命令している。(5)当時の日本は戦争に備えて軍備を増強させ、朝鮮侵略・併合や清との対決機会を伺っており、やぶへびになることを避けていたのである。
甲午戦争の1年前にあたる1893年まで出されていた、沖縄県知事による釣魚島などの沖縄県への帰属要求を、内・外務卿はさらに1年引き伸ばした。甲午戦争勃発後も、日本政府は勝利を確信していないためか、「同島が日本に所属するのか否か、未だ明確ではない」としてこの問題を避けている。
しかし、日本軍が1894年11月末に旅順を占領し、清の主力である北洋艦隊を威海に封じ込め、明治政府は清への勝利を確信する。その後、中国に台湾を割譲させる講和条件を突きつけ、中国へ通知しないまま、先行して秘密裏に釣魚列島を奪い取ってしまう。野村靖・内務大臣は同12月27日、陸奥宗光・外務大臣へ密書を送り、命令で先送りになっていた「久場島」(黄尾嶼)、「魚釣島」での目印の杭を建設について、しばらく停止の命令を下したとはいえ、「其当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付(訳注)」として、これらの島に対し「管理が必要」で、あらためて議論すべきとしている。これに対して外務省は異議を申し立てず、「御見込ノ通リ御取計相成可(訳注)」としている。その結果、1895年1月14日、日本政府は戦争の終結を待たずして「内閣決議」を行い、釣魚列島を沖縄県の管轄下に置き、目印となる杭を立てた。(6)中日両国は同4月17日、『馬関条約(下関条約)』に調印。中国は台湾とその周囲の島を割譲させられ、日本が敗戦するまで、日本による台湾統治は50年にわたった。釣魚島など台湾周囲の島も長い間日本に占領された。
}
http://j.peopledaily.com.cn/cehua/20040407/01.htm
了承文章があることを明示してみなよ。
台湾などを日本に割譲したが、
カイロ宣言によって、返還されることとなり、ボツダム宣言は日本の領土を、連合軍が指定することになった。
{外務卿の井上馨が、1885年10月21日に内務卿・山県有朋へ送った書簡には「熟考候処右嶋嶼ノ義ハ清国々境ニモ接近致候曩ニ踏査ヲ遂ケ候大東島ニ比スレハ周回モ小サキ趣ニ相見ヘ殊ニ清国ニハ其嶋名モ附シ有之候ニ就テハ近時清国新聞紙等ニモ我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ嶋嶼ヲ占據セシ等ノ風説ヲ掲載シ我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ頻ニ清政府ノ注意ヲ促シ候モノモ有之候際ニ付此際遽ニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置有之候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間差向実地ヲ踏査セシメ港湾ノ形状并ニ土地物産開拓見込有無詳細報告セシムルノミニ止メ国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ他日ノ機会ニ譲候方可然存候(訳注)」と書かれている。井上馨は山県有朋に対して、日本側の秘密調査を新聞に公開しないで秘密裏に行い、中国および国際的な異議・反対を避ける必要があると何度も言い聞かせている。西村捨三・沖縄県令は同11月24日、調査結果を内務卿へ上奏し、「国標建設ノ儀ハ嘗テ伺書ノ通清国ト関係ナキニシモアラス万一不都合ヲ生シ候テハ不相済候ニ付如何取計可然哉(訳注)」と指示を求めている。内・外務卿は同11月25日、連名で「目下(国標)建設ヲ要セサル儀ト可心得事(訳注)」 と命令している。(5)当時の日本は戦争に備えて軍備を増強させ、朝鮮侵略・併合や清との対決機会を伺っており、やぶへびになることを避けていたのである。
甲午戦争の1年前にあたる1893年まで出されていた、沖縄県知事による釣魚島などの沖縄県への帰属要求を、内・外務卿はさらに1年引き伸ばした。甲午戦争勃発後も、日本政府は勝利を確信していないためか、「同島が日本に所属するのか否か、未だ明確ではない」としてこの問題を避けている。
しかし、日本軍が1894年11月末に旅順を占領し、清の主力である北洋艦隊を威海に封じ込め、明治政府は清への勝利を確信する。その後、中国に台湾を割譲させる講和条件を突きつけ、中国へ通知しないまま、先行して秘密裏に釣魚列島を奪い取ってしまう。野村靖・内務大臣は同12月27日、陸奥宗光・外務大臣へ密書を送り、命令で先送りになっていた「久場島」(黄尾嶼)、「魚釣島」での目印の杭を建設について、しばらく停止の命令を下したとはいえ、「其当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付(訳注)」として、これらの島に対し「管理が必要」で、あらためて議論すべきとしている。これに対して外務省は異議を申し立てず、「御見込ノ通リ御取計相成可(訳注)」としている。その結果、1895年1月14日、日本政府は戦争の終結を待たずして「内閣決議」を行い、釣魚列島を沖縄県の管轄下に置き、目印となる杭を立てた。(6)中日両国は同4月17日、『馬関条約(下関条約)』に調印。中国は台湾とその周囲の島を割譲させられ、日本が敗戦するまで、日本による台湾統治は50年にわたった。釣魚島など台湾周囲の島も長い間日本に占領された。
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http://j.peopledaily.com.cn/cehua/20040407/01.htm
これは メッセージ 23032 (monpa60 さん)への返信です.
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