西蔵の叫び
投稿者: twaptng 投稿日時: 2004/10/11 19:09 投稿番号: [13641 / 66577]
「文化大革命」が終わった1970年代後半、中国自身が疲弊しきっていたせいか、若干反省の色を示した時期がありました。
これまでのチベット政策の失敗を認めて、チベット文化の見直しや宗教の復活などを許しました。僧院の再建が少しずつ始まり、聖地への巡礼が許され、チベット語を教える学校が作られました。
外国人観光客がチベットを訪れることができるようになり、1980年代は「雪解け」の時代などと言われたものです。
しかし、それも一時のこと。元気を取り戻したチベット人たちが再び反中国やチベット独立を訴えはじめると、中国は力で抑えにかかりました。反中国の抗議行動はしだいに大規模になり、見かねた中国はついに1989年3月、ラサに戒厳令を敷いて外界から遮断してしまいます。1990年5月に戒厳令は解除されましたが、反中国的な行動に対する強攻策は今も変わっていません。
90年代半ば以降、市場経済を採り入れた「改革開放」政策のもとでチベットは経済的には発展したようにみえます。確かに、食べるものに困らなくなったという点では「豊か」になったと言えるでしょう。
「文化大革命」が終わった1970年代後半、中国自身が疲弊しきっていたせいか、若干反省の色を示した時期がありました。
これまでのチベット政策の失敗を認めて、チベット文化の見直しや宗教の復活などを許しました。僧院の再建が少しずつ始まり、聖地への巡礼が許され、チベット語を教える学校が作られました。
外国人観光客がチベットを訪れることができるようになり、1980年代は「雪解け」の時代などと言われたものです。
しかし、それも一時のこと。元気を取り戻したチベット人たちが再び反中国やチベット独立を訴えはじめると、中国は力で抑えにかかりました。反中国の抗議行動はしだいに大規模になり、見かねた中国はついに1989年3月、ラサに戒厳令を敷いて外界から遮断してしまいます。1990年5月に戒厳令は解除されましたが、反中国的な行動に対する強攻策は今も変わっていません。
90年代半ば以降、市場経済を採り入れた「改革開放」政策のもとでチベットは経済的には発展したようにみえます。確かに、食べるものに困らなくなったという点では「豊か」になったと言えるでしょう。
また、中国はチベットが広いのをいいことに、核実験場をつくり、核廃棄物・産業廃棄物の捨て場にし、鉄道を敷いて鉱物資源を持ち去り、貴重な野生動物を乱獲しています。森林の豊富な東チベットでの乱伐は、98年の揚子江水害の原因にもなりました。
人口が希薄なチベットに、人口過密な中国本土から大量の人口を故意に移動させる動きも盛んです。移住者は税金面で優遇を受け、高い給料をもらう一方、地元のチベットから仕事を奪います。移住してきた中国人が食べる小麦をつくるために、遊牧民の土地が奪われ、急激に人口が増えたために、生態系が破壊されています。
こうして中国人の数を増やしておいて、チベット人には産児制限を押しつけ、避妊や中絶まで強制しているという報告もあります。
このままでは現在「チベット族自治区」「チベット族自治州」などと名前がついている地域でさえ、チベット人が少数派になってしまうでしょう(すでに多くの地域でそうなっています)。ひとつの民族を物理的に抹殺してしてしまう「民族浄化」が、ゆるやかな形で確実に進んでいるといえます。そうすれば、いずれチベット問題という問題の対象じたいがなくなります……これが中国が求める「最終的な解決法」かもしれません。
ダライ・ラマ14世は亡命して以来40年以上、国際社会にチベット問題を訴え続けてきました。しかし、状況はむしろ悪化しているような印象さえ受けます。中国軍による監視の目をくぐりぬけてヒマラヤ山脈を越えてインドやネパールに逃げてくるチベット人は(運良く逃げられた数だけで)いまも毎年2,000〜3,000人にのぼります。
これまでのチベット政策の失敗を認めて、チベット文化の見直しや宗教の復活などを許しました。僧院の再建が少しずつ始まり、聖地への巡礼が許され、チベット語を教える学校が作られました。
外国人観光客がチベットを訪れることができるようになり、1980年代は「雪解け」の時代などと言われたものです。
しかし、それも一時のこと。元気を取り戻したチベット人たちが再び反中国やチベット独立を訴えはじめると、中国は力で抑えにかかりました。反中国の抗議行動はしだいに大規模になり、見かねた中国はついに1989年3月、ラサに戒厳令を敷いて外界から遮断してしまいます。1990年5月に戒厳令は解除されましたが、反中国的な行動に対する強攻策は今も変わっていません。
90年代半ば以降、市場経済を採り入れた「改革開放」政策のもとでチベットは経済的には発展したようにみえます。確かに、食べるものに困らなくなったという点では「豊か」になったと言えるでしょう。
「文化大革命」が終わった1970年代後半、中国自身が疲弊しきっていたせいか、若干反省の色を示した時期がありました。
これまでのチベット政策の失敗を認めて、チベット文化の見直しや宗教の復活などを許しました。僧院の再建が少しずつ始まり、聖地への巡礼が許され、チベット語を教える学校が作られました。
外国人観光客がチベットを訪れることができるようになり、1980年代は「雪解け」の時代などと言われたものです。
しかし、それも一時のこと。元気を取り戻したチベット人たちが再び反中国やチベット独立を訴えはじめると、中国は力で抑えにかかりました。反中国の抗議行動はしだいに大規模になり、見かねた中国はついに1989年3月、ラサに戒厳令を敷いて外界から遮断してしまいます。1990年5月に戒厳令は解除されましたが、反中国的な行動に対する強攻策は今も変わっていません。
90年代半ば以降、市場経済を採り入れた「改革開放」政策のもとでチベットは経済的には発展したようにみえます。確かに、食べるものに困らなくなったという点では「豊か」になったと言えるでしょう。
また、中国はチベットが広いのをいいことに、核実験場をつくり、核廃棄物・産業廃棄物の捨て場にし、鉄道を敷いて鉱物資源を持ち去り、貴重な野生動物を乱獲しています。森林の豊富な東チベットでの乱伐は、98年の揚子江水害の原因にもなりました。
人口が希薄なチベットに、人口過密な中国本土から大量の人口を故意に移動させる動きも盛んです。移住者は税金面で優遇を受け、高い給料をもらう一方、地元のチベットから仕事を奪います。移住してきた中国人が食べる小麦をつくるために、遊牧民の土地が奪われ、急激に人口が増えたために、生態系が破壊されています。
こうして中国人の数を増やしておいて、チベット人には産児制限を押しつけ、避妊や中絶まで強制しているという報告もあります。
このままでは現在「チベット族自治区」「チベット族自治州」などと名前がついている地域でさえ、チベット人が少数派になってしまうでしょう(すでに多くの地域でそうなっています)。ひとつの民族を物理的に抹殺してしてしまう「民族浄化」が、ゆるやかな形で確実に進んでいるといえます。そうすれば、いずれチベット問題という問題の対象じたいがなくなります……これが中国が求める「最終的な解決法」かもしれません。
ダライ・ラマ14世は亡命して以来40年以上、国際社会にチベット問題を訴え続けてきました。しかし、状況はむしろ悪化しているような印象さえ受けます。中国軍による監視の目をくぐりぬけてヒマラヤ山脈を越えてインドやネパールに逃げてくるチベット人は(運良く逃げられた数だけで)いまも毎年2,000〜3,000人にのぼります。
これは メッセージ 13640 (twaptng さん)への返信です.
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