西蔵の叫び
投稿者: twaptng 投稿日時: 2004/10/11 19:07 投稿番号: [13640 / 66577]
チベットはかつて、ひとつの独立国家でした。しかし、「もともとは中国だった」という強引な理屈と、軍事力の脅しによって、中国の一部にさせられてしまいました。
1951年、かつてのチベット政府は、中国の軍事的脅威のもとで中国政府と「17条協定」を結ぶよう強いられました。この協定によってチベットは名実ともに中国の一部になったのですが、協定の内容が守られていれば、まだマシだったと言えます。
当時、中国共産党は中国の他の地方で共産主義による急速な「民主改革」を進めていましたが、この協定では、チベットの事情に配慮して「チベットには改革を強制しない」と約束していました。
しかし現在にいたるまで、中国がやったことは一貫して正反対。「銃口から政権が生まれる」という有名な言葉どおり、中国はチベットにも銃口を向けました。仏教国であるチベットの95%の僧院を破壊し、多くの僧侶を還俗させ、経典を焼き、仏像を持ち去って溶かしました。また、僧院を中心とした社会の仕組みを壊し、チベット人の土地を勝手に分配し、遊牧民から放牧地を取り上げて定住させようとしました。
中国はこれを「封建農奴制からの解放」「民主改革」などと呼び、たかだか600万人のチベット人に対して8万以上の人民解放軍を送り込んで、さして求められてもいない「改革」を強要したのです。
穏やかな仏教徒であるチベット人ですが、ここまでされて、さすがに黙っているばかりではありません。反中国の抵抗運動が、中国に近い東チベットで起こり、全チベットに広まりました。数の上で太刀打ちできないチベット人は、もっぱら山間にたてこもってゲリラ戦を展開するしかありません。1959年にはチベットの都ラサで市民による大規模な反乱が起こりましたが、もちろん中国軍に鎮圧されてしまいます。ダライ・ラマ14世は、これ以上の戦いを避けるため、インドへ亡命せざるをえなくなりました。
ダライ・ラマ14世がチベットを去った後、中国は中央チベットに「チベット自治区」を成立させ、着々とチベット支配を進めていきました。しかし、チベット人の中国への抵抗は根強く、中国に従わない者は容赦なく投獄されたり殺されました。
もともとそれほど多くの人間を養うような肥沃な土地の少ないチベットに軍人などが急に流れ込んだために食糧事情が悪化し、大量の餓死者がでました。
60年代から70年代にかけては、輪をかけて凄惨な「文化大革命」。チベット風のものはすべて否定され、「改革」を生き抜いたわずかな僧院も破壊されました。
「改革」「文化大革命」を通して、中国による拷問や戦闘、餓えのために死亡したチベット人は120万人にのぼるという統計があります。
1951年、かつてのチベット政府は、中国の軍事的脅威のもとで中国政府と「17条協定」を結ぶよう強いられました。この協定によってチベットは名実ともに中国の一部になったのですが、協定の内容が守られていれば、まだマシだったと言えます。
当時、中国共産党は中国の他の地方で共産主義による急速な「民主改革」を進めていましたが、この協定では、チベットの事情に配慮して「チベットには改革を強制しない」と約束していました。
しかし現在にいたるまで、中国がやったことは一貫して正反対。「銃口から政権が生まれる」という有名な言葉どおり、中国はチベットにも銃口を向けました。仏教国であるチベットの95%の僧院を破壊し、多くの僧侶を還俗させ、経典を焼き、仏像を持ち去って溶かしました。また、僧院を中心とした社会の仕組みを壊し、チベット人の土地を勝手に分配し、遊牧民から放牧地を取り上げて定住させようとしました。
中国はこれを「封建農奴制からの解放」「民主改革」などと呼び、たかだか600万人のチベット人に対して8万以上の人民解放軍を送り込んで、さして求められてもいない「改革」を強要したのです。
穏やかな仏教徒であるチベット人ですが、ここまでされて、さすがに黙っているばかりではありません。反中国の抵抗運動が、中国に近い東チベットで起こり、全チベットに広まりました。数の上で太刀打ちできないチベット人は、もっぱら山間にたてこもってゲリラ戦を展開するしかありません。1959年にはチベットの都ラサで市民による大規模な反乱が起こりましたが、もちろん中国軍に鎮圧されてしまいます。ダライ・ラマ14世は、これ以上の戦いを避けるため、インドへ亡命せざるをえなくなりました。
ダライ・ラマ14世がチベットを去った後、中国は中央チベットに「チベット自治区」を成立させ、着々とチベット支配を進めていきました。しかし、チベット人の中国への抵抗は根強く、中国に従わない者は容赦なく投獄されたり殺されました。
もともとそれほど多くの人間を養うような肥沃な土地の少ないチベットに軍人などが急に流れ込んだために食糧事情が悪化し、大量の餓死者がでました。
60年代から70年代にかけては、輪をかけて凄惨な「文化大革命」。チベット風のものはすべて否定され、「改革」を生き抜いたわずかな僧院も破壊されました。
「改革」「文化大革命」を通して、中国による拷問や戦闘、餓えのために死亡したチベット人は120万人にのぼるという統計があります。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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