補:少し勉P.6(フランス革命)
投稿者: koukiyumeno 投稿日時: 2004/10/04 22:56 投稿番号: [13693 / 21882]
1760年代に産業革命が始まったイギリスでは大量生産が可能となり、
イギリス商品はヨーロッパ市場に大量に輸出されるようになって
来ました。
このような状態にフランスのお金持ちや自由主義的な貴族たちは
危機感を募らせるのですが、フランスでも同じことをしようとすると
大きな壁が立ちはだかっていました。
それが絶対王政です。
絶対王政では自由な経済活動は不可能でした。
王権と結びついたごく一部の特権商人が経済活動を牛耳って
いましたし、同業者組合(ギルド)は様々な規制を設けて共に
自由競争を阻害していました。
自由競争により利益が見込めるからこそ創意工夫をする
意欲がわきます。
努力して革新的な発明をしたところで、それを生かす場がなく、
何の利益ももたらさないのであれば人間は努力しなくなります。
それがフランスでした。
もし、このような状態を打破しようとするならば社会の根本的な
改変が必要となります。
幸いというべきか迷うところですが、当時のフランスは貧富の差が
激しく都市や農村の人々は貧困にあえいでいました。
アーサー・ヤングは当時のフランスの状態をその旅行記で描いています。
革命への機運は熟していました。
しかし、それだけでは散発的な農民一揆にはなっても、
革命にはなりえません。
一般に、貧しい人々は生活するのに精一杯なので、体制の矛盾などを
論じる余裕などないように思えます。
ロシアのナロードニキ運動の失敗もそのことが大きな原因の一つ
だったのではないでしょうか。
体制の矛盾と新しい社会への展望がなければ、たとえ武器を持って
立ち上がっても、それはせいぜい共同体単位の
暴動にしかなりえません。
彼らに武器を持たせ、集団化し、進む道を指し示す存在があって、
はじめて革命になります。
虐げられた人々がついに武器を持って立ち上がり絶対王政を
倒した…のは漫画の世界で、本当に革命を必要とし、
革命を起こしたのはたのはお金持ちたちでした。
虐げられた人々はその道具に使われたのです。
人権宣言や91年憲法にそのことをはっきりと読み取ることができます。
もちろん革命は時にそのような思惑を離れて暴走するように
見えることもあります。
しかし、ジャコバンの恐怖政治もお金持ちたちの消極的な指示が
あればこそ可能だったのです。
当時は対仏大同盟の脅威があり、独裁政治でなければその脅威を
切り抜けることは不可能なように思えたのです。
脅威が減じれば、ロベスピエールもギロチン台に送られます。
その後多少の紆余曲折の後に革命の成果を確実にするために
御輿にのせられたのがナポレオンです。
ちなみにナポレオンはコルシカ島出身なのでイタリア系です。
ナポレオーネ・ボナパルテと当初は自署しています。
彼は軍人としてばかりではなく、政治家としても偉大有能でした。
フランス銀行の設立により革命で混乱した経済を正常化し、
フランス民法典により革命の成果に法的根拠を与えました。
尚、エジプト遠征はナポレオンの政治的駆け引きの産物だと
私は考えています。
当時ナポレオンは総裁政府によりイギリス方面軍最高司令官に
任命されていました。
これは名ばかりの閑職で、国民的人気の高さを恐れた政府から
押し付けられていたのです。
このまま自分の名が忘れ去られてしまうことを恐れたナポレオンは
自らエジプト遠征を提案します。
政府としてはこの危険人物をフランスから遠ざけることが
できるのですから願ってもないことでした。
ナポレオンにしてみれば、成功すれば国民的名声がさらに高まり、
失敗すれば対仏大同盟の脅威が再びフランス国民を捕らえ
自分を求める声が高まるという計算があったのではないでしょうか?
ナポレオンもフランスの自営農民と富裕層のために戦い続けなければ
ならなかったのです。
つまりフランス革命からナポレオンまでのヨーロッパは
基本的には産業革命によって生じたイギリスとフランスの富裕層の
戦いだったのだと考えることができます。
忘れてはいけないのが、フランス革命はルソーの哲学が大きく影響
しているということです。
もともと18世紀は理性の世紀と表現されることがあります。
ルソーは一般意思という言葉を使用しています。
この言葉は理性を正しく使えば全ての人間は同じ結論にたどり着く
という意味も持ち、多様な価値観を認めない全体主義に陥る危険性を
内包しています。
フランス革命は当初から恐怖政治への危険性を
持っていたのかもしれません。
以上例により思いつくままにキーボードを打ち
イギリス商品はヨーロッパ市場に大量に輸出されるようになって
来ました。
このような状態にフランスのお金持ちや自由主義的な貴族たちは
危機感を募らせるのですが、フランスでも同じことをしようとすると
大きな壁が立ちはだかっていました。
それが絶対王政です。
絶対王政では自由な経済活動は不可能でした。
王権と結びついたごく一部の特権商人が経済活動を牛耳って
いましたし、同業者組合(ギルド)は様々な規制を設けて共に
自由競争を阻害していました。
自由競争により利益が見込めるからこそ創意工夫をする
意欲がわきます。
努力して革新的な発明をしたところで、それを生かす場がなく、
何の利益ももたらさないのであれば人間は努力しなくなります。
それがフランスでした。
もし、このような状態を打破しようとするならば社会の根本的な
改変が必要となります。
幸いというべきか迷うところですが、当時のフランスは貧富の差が
激しく都市や農村の人々は貧困にあえいでいました。
アーサー・ヤングは当時のフランスの状態をその旅行記で描いています。
革命への機運は熟していました。
しかし、それだけでは散発的な農民一揆にはなっても、
革命にはなりえません。
一般に、貧しい人々は生活するのに精一杯なので、体制の矛盾などを
論じる余裕などないように思えます。
ロシアのナロードニキ運動の失敗もそのことが大きな原因の一つ
だったのではないでしょうか。
体制の矛盾と新しい社会への展望がなければ、たとえ武器を持って
立ち上がっても、それはせいぜい共同体単位の
暴動にしかなりえません。
彼らに武器を持たせ、集団化し、進む道を指し示す存在があって、
はじめて革命になります。
虐げられた人々がついに武器を持って立ち上がり絶対王政を
倒した…のは漫画の世界で、本当に革命を必要とし、
革命を起こしたのはたのはお金持ちたちでした。
虐げられた人々はその道具に使われたのです。
人権宣言や91年憲法にそのことをはっきりと読み取ることができます。
もちろん革命は時にそのような思惑を離れて暴走するように
見えることもあります。
しかし、ジャコバンの恐怖政治もお金持ちたちの消極的な指示が
あればこそ可能だったのです。
当時は対仏大同盟の脅威があり、独裁政治でなければその脅威を
切り抜けることは不可能なように思えたのです。
脅威が減じれば、ロベスピエールもギロチン台に送られます。
その後多少の紆余曲折の後に革命の成果を確実にするために
御輿にのせられたのがナポレオンです。
ちなみにナポレオンはコルシカ島出身なのでイタリア系です。
ナポレオーネ・ボナパルテと当初は自署しています。
彼は軍人としてばかりではなく、政治家としても偉大有能でした。
フランス銀行の設立により革命で混乱した経済を正常化し、
フランス民法典により革命の成果に法的根拠を与えました。
尚、エジプト遠征はナポレオンの政治的駆け引きの産物だと
私は考えています。
当時ナポレオンは総裁政府によりイギリス方面軍最高司令官に
任命されていました。
これは名ばかりの閑職で、国民的人気の高さを恐れた政府から
押し付けられていたのです。
このまま自分の名が忘れ去られてしまうことを恐れたナポレオンは
自らエジプト遠征を提案します。
政府としてはこの危険人物をフランスから遠ざけることが
できるのですから願ってもないことでした。
ナポレオンにしてみれば、成功すれば国民的名声がさらに高まり、
失敗すれば対仏大同盟の脅威が再びフランス国民を捕らえ
自分を求める声が高まるという計算があったのではないでしょうか?
ナポレオンもフランスの自営農民と富裕層のために戦い続けなければ
ならなかったのです。
つまりフランス革命からナポレオンまでのヨーロッパは
基本的には産業革命によって生じたイギリスとフランスの富裕層の
戦いだったのだと考えることができます。
忘れてはいけないのが、フランス革命はルソーの哲学が大きく影響
しているということです。
もともと18世紀は理性の世紀と表現されることがあります。
ルソーは一般意思という言葉を使用しています。
この言葉は理性を正しく使えば全ての人間は同じ結論にたどり着く
という意味も持ち、多様な価値観を認めない全体主義に陥る危険性を
内包しています。
フランス革命は当初から恐怖政治への危険性を
持っていたのかもしれません。
以上例により思いつくままにキーボードを打ち
これは メッセージ 13586 (kon_do_i さん)への返信です.