nagoyan_2shikiさん
投稿者: syowa2003 投稿日時: 2003/10/14 23:36 投稿番号: [6748 / 44985]
>そういえば大阪の生野区はなぜあんなに在日朝鮮人の比率が高いのじゃろう。
>歴史的経緯があると思うが・・・
生野区の在日朝鮮人比率が高いことは、済州島出身者が定住した事に
始まります。
以下は歴史的経緯の説明です。
【日韓併合以前】
済州島は元々朝鮮の国ではなく、6世紀頃までは独立国であり朝鮮と
は異なる民族が住み、歴史的文化的にも異なる国でした。
6世紀以降は半島の支配下におかれましたが、半島の朝鮮民族が移住
する事は殆どなく、もっぱら流刑地として用いられてきました。
また半島と異なり気候が温暖な済州島は、農業は蜜柑の栽培が盛んで
あり、また海洋資源に恵まれ海女漁が盛んであったため、済州島から
日本への海女や漁民の出稼ぎも明治期から始まっていたそうです。
【日韓併合時】
その後、日韓併合時代に入り大正期に済州島と大阪のあいだに、直通
航路が開通された事により、済州島から多くの人達が内地に出稼ぎに
きました。(必ずしも定住ではなく往来も盛んだった)
またその後、済州島で家畜の疫病が発生した事もあり、生活難に陥っ
た島民が親戚縁者を頼り、大阪に渡ってきたとも言われています。
職を求めて内地に渡った済州島の人々の一部が、大阪生野区の平野
運河開さく工事に従事し、やがて家族とともにこのあたり一帯に定住す
ることになりました。
定住が始まると自然に同族が集まりだし、規模が広がるにつれ済州島
出身者以外の半島出身者も、生野周辺に定住するようになりました。
【日本敗戦後】
日本敗戦後も済州島出身者は、その渡来(移住)の経緯もあり、多くは
生野区周辺に定住したまま帰国はしませんでした。
※ 当然ですが全員ではなく、一部の方は島に戻りました。
しかしその後、済州島では大韓民国史のタブーと言われる虐殺事件が起
こりました。
四・三事件(1945〜1955年)
日本敗戦後、米軍統治下の朝鮮半島南部では、大韓民国の建国にむけた
単独選挙が予定されていました。
1948年4月3日、分断を前提とした単独選挙に対して、済州島で反対運動
(武装蜂起)が起きました。
それに対し韓国政府軍は弾圧(鎮圧)を行い、事件に無関係の島民をも
含む死者3〜5万人とも7〜10万人とも言われる虐殺事件に発展しました。
また運動(武装蜂起)鎮圧後も、極端な軍政下の李承晩政権下では済州島
に対する迫害が続き、虐殺を逃れた人々やその後の迫害に耐えかねた人々
が、親類縁者を頼り大阪に密航してきました。(難民状態)
このような経緯もあり、大阪の総連系の方の8割が済州島の出身者で占め
られていると仰る朝鮮籍の方も居られます。(総連在籍の方の発言です)
【70年代以降】
その後1970年代に入り、済州島からの密航者は大量密航の形をとるように
なり、長きの間1970年以降の「不法入国」の8割以上を済州島人が占めて
いました。※法務省発表(摘発者のみの統計です)
不法入国の理由の大半は生活苦であり、同島出身者を頼って、同胞のコロ
ニーを頼りに、大阪に渡ってきました。
※ 後に大半は特別永住資格者となる
その後80年代、90年代を経て現在に至るわけですが、今では生野区は
日本最大の在日朝鮮人居住区と化しており、多くのニューカマーも生活面
文化面での抵抗が少ない生野区に定住するようになりました。
以上の歴史的経緯は、私が在日韓国・朝鮮人の友人知人関係から聴いた話や
法務局・大阪入管・内務省の資料、当時の新聞記事、在日朝鮮人の方の手記
在日団体の聞き取り報告、大阪府・大阪市の公開資料、大阪文化史関係資料
などを元に記述しました。
なにぶん当事者ではありませんので、詳細においては誤りがあろうかと思い
ますので、お気付きになられた点があればご指摘下さい。
>歴史的経緯があると思うが・・・
生野区の在日朝鮮人比率が高いことは、済州島出身者が定住した事に
始まります。
以下は歴史的経緯の説明です。
【日韓併合以前】
済州島は元々朝鮮の国ではなく、6世紀頃までは独立国であり朝鮮と
は異なる民族が住み、歴史的文化的にも異なる国でした。
6世紀以降は半島の支配下におかれましたが、半島の朝鮮民族が移住
する事は殆どなく、もっぱら流刑地として用いられてきました。
また半島と異なり気候が温暖な済州島は、農業は蜜柑の栽培が盛んで
あり、また海洋資源に恵まれ海女漁が盛んであったため、済州島から
日本への海女や漁民の出稼ぎも明治期から始まっていたそうです。
【日韓併合時】
その後、日韓併合時代に入り大正期に済州島と大阪のあいだに、直通
航路が開通された事により、済州島から多くの人達が内地に出稼ぎに
きました。(必ずしも定住ではなく往来も盛んだった)
またその後、済州島で家畜の疫病が発生した事もあり、生活難に陥っ
た島民が親戚縁者を頼り、大阪に渡ってきたとも言われています。
職を求めて内地に渡った済州島の人々の一部が、大阪生野区の平野
運河開さく工事に従事し、やがて家族とともにこのあたり一帯に定住す
ることになりました。
定住が始まると自然に同族が集まりだし、規模が広がるにつれ済州島
出身者以外の半島出身者も、生野周辺に定住するようになりました。
【日本敗戦後】
日本敗戦後も済州島出身者は、その渡来(移住)の経緯もあり、多くは
生野区周辺に定住したまま帰国はしませんでした。
※ 当然ですが全員ではなく、一部の方は島に戻りました。
しかしその後、済州島では大韓民国史のタブーと言われる虐殺事件が起
こりました。
四・三事件(1945〜1955年)
日本敗戦後、米軍統治下の朝鮮半島南部では、大韓民国の建国にむけた
単独選挙が予定されていました。
1948年4月3日、分断を前提とした単独選挙に対して、済州島で反対運動
(武装蜂起)が起きました。
それに対し韓国政府軍は弾圧(鎮圧)を行い、事件に無関係の島民をも
含む死者3〜5万人とも7〜10万人とも言われる虐殺事件に発展しました。
また運動(武装蜂起)鎮圧後も、極端な軍政下の李承晩政権下では済州島
に対する迫害が続き、虐殺を逃れた人々やその後の迫害に耐えかねた人々
が、親類縁者を頼り大阪に密航してきました。(難民状態)
このような経緯もあり、大阪の総連系の方の8割が済州島の出身者で占め
られていると仰る朝鮮籍の方も居られます。(総連在籍の方の発言です)
【70年代以降】
その後1970年代に入り、済州島からの密航者は大量密航の形をとるように
なり、長きの間1970年以降の「不法入国」の8割以上を済州島人が占めて
いました。※法務省発表(摘発者のみの統計です)
不法入国の理由の大半は生活苦であり、同島出身者を頼って、同胞のコロ
ニーを頼りに、大阪に渡ってきました。
※ 後に大半は特別永住資格者となる
その後80年代、90年代を経て現在に至るわけですが、今では生野区は
日本最大の在日朝鮮人居住区と化しており、多くのニューカマーも生活面
文化面での抵抗が少ない生野区に定住するようになりました。
以上の歴史的経緯は、私が在日韓国・朝鮮人の友人知人関係から聴いた話や
法務局・大阪入管・内務省の資料、当時の新聞記事、在日朝鮮人の方の手記
在日団体の聞き取り報告、大阪府・大阪市の公開資料、大阪文化史関係資料
などを元に記述しました。
なにぶん当事者ではありませんので、詳細においては誤りがあろうかと思い
ますので、お気付きになられた点があればご指摘下さい。
これは メッセージ 6670 (nagoyan_2shiki さん)への返信です.
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