リラ殿>朝鮮「パルチザン」②
投稿者: kokusaikouhou666 投稿日時: 2005/01/08 00:40 投稿番号: [27441 / 44985]
>なによりも、彼らの活動の舞台が朝鮮半島ではなく、満州やソ連との国境付近であったことが変に思えるのです。
>なんでまた彼らは、満州やらソ連との国境という朝鮮半島から離れた場所でパルチザン活動なるものをしなければならなかったのでしょうか?
>武器を手に入れるために近隣の家々を襲った、というような記載がされているのです。彼らのパルチザン活動の実態って、どんなものだったのでしょう?
朝鮮半島では朝鮮総督府と朝鮮軍(朝鮮半島駐箚の日本軍。第19師団及び第20師団)の存在故にパルチザン活動等は殆ど不可能だったので、最初は中朝国境の中国側にありながら住民の大多数が朝鮮人で、しかも日本の施政権が及ばない間島を根拠地に活動し、間島の根拠地が上述の経緯で叩き潰されると中国共産党(満洲匪賊)の手先になり、満州匪賊が極東ソ連軍に掌握されると今度はソ連軍の手先になる・・・ということなんでしょうね・・・
しかも「パルチザン活動」といっても貧農の一揆や「打ち毀し」みたいなものが多くて、被害に遭うのは日本人よりも支那人や富裕な朝鮮人のほうが多かったみたいですし・・・
以下思いっきり冗長ですので、斜め読みして頂ければ、と思いまつww
元々「間島」とは豆満江の中洲島のことでしたが、豆満江を越えて南満州に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し、豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになりました。
間島は清朝の父祖の地である白頭山を含むことから、清朝の聖域だったのですが、前述のとおり多数の朝鮮人農民が入り込んでしまい、引き上げさせることもできないため、結局朝鮮人農民を支那の良民と認め課税することとしました。
一方李氏朝鮮は間島は自国領であると主張し、日露戦争後朝鮮を保護国として外交権を握った日本もこの主張を承継しましたが、1909年、日本と清国の外交交渉の結果、日本は支那における他の権益について譲歩を得るため、清の間島領有を認め間島協約を締結しました。
このような経緯もあり、間島を含む東満州は、1916年以降張作霖とその配下の吉林都督・鮑貴卿が支配していましたが、張作霖の主力部隊は北支方面に投入されていたため、間島にはろくな軍隊は配属されておらず、馬賊や朝鮮匪賊の理想的な根拠地となっていました。
そこで朝鮮軍は、大正9年10月16日に鮑貴卿との間で「日支両軍協同討伐ニ関スル規定」を締結し、東支鉄道以南20支里以外の東寧県と、琿春、延吉、汪清、和龍県四県(間島の殆どの部分)での日本軍の作戦行動を認めさせました。
この規定に基づいて発動されたのが前述の間島出兵で、この討伐作戦は「出動地帯の敵地にあらざりしこと、支那軍隊の妥協的討伐の後を受け賊徒四散せること・・・地域の広範なるに比し兵力僅少時日短小なりしこと等」の諸種の事情により壊滅的打撃を与えることは出来ず、又中心的な人物は逃してしまったものの、「至大の打撃を加えその禍根を芟除し能くその目的を達し相当の効果を収めた(間島出兵史143頁。原文は旧仮名)」とされています(戦果:射殺494名、逮捕607名、鹵獲兵器小銃549、機関銃4、拳銃40等。同書145頁)。
尚このときソ連領まで逃げた洪範図の「大韓独立軍」は、赤軍により武装解除され壊滅します。
間島出兵以降も間島では朝鮮共産党の策謀が続きますが、何れも大量検挙により壊滅しています。
その最後の「徒花」というべきものが、昭和5年5月から翌年春まで断続的に続いた「間島5.30事件」ですが、これは中国共産党の支援を受けた金竽、金槿らが首謀したもので、楊在豊と金一星(キムイルソン。金日成はこの金一星を騙ったものです)が行動隊長となって日本側施設や富裕な朝鮮人、支那人を襲撃しました。
しかし日本人及び日本の施設の被害は意外に少なく、逆に朝鮮人の被害が一番多く支那人がこれに次ぐこと、日時が経過するにつれ掠奪が激増し殺人・拉致は昭和5年7月から12月の間に行なわれていること、しかもその対象は朝鮮人・支那人に限られていたことから、首謀者の意図は別として実際には対日パルチザンというよりは、途中から間島の住民の殆どを占めていた朝鮮人の貧農による一揆や打ち毀しのようなものに変貌していったようです。
なおこの間島5.30事件の参加者は2000人ほどと見積もられていましたが、日支警察の合同捜査により首謀者の金竽、金槿以下68人は5月中に、11月までには更に700余人が検挙されています。
>なんでまた彼らは、満州やらソ連との国境という朝鮮半島から離れた場所でパルチザン活動なるものをしなければならなかったのでしょうか?
>武器を手に入れるために近隣の家々を襲った、というような記載がされているのです。彼らのパルチザン活動の実態って、どんなものだったのでしょう?
朝鮮半島では朝鮮総督府と朝鮮軍(朝鮮半島駐箚の日本軍。第19師団及び第20師団)の存在故にパルチザン活動等は殆ど不可能だったので、最初は中朝国境の中国側にありながら住民の大多数が朝鮮人で、しかも日本の施政権が及ばない間島を根拠地に活動し、間島の根拠地が上述の経緯で叩き潰されると中国共産党(満洲匪賊)の手先になり、満州匪賊が極東ソ連軍に掌握されると今度はソ連軍の手先になる・・・ということなんでしょうね・・・
しかも「パルチザン活動」といっても貧農の一揆や「打ち毀し」みたいなものが多くて、被害に遭うのは日本人よりも支那人や富裕な朝鮮人のほうが多かったみたいですし・・・
以下思いっきり冗長ですので、斜め読みして頂ければ、と思いまつww
元々「間島」とは豆満江の中洲島のことでしたが、豆満江を越えて南満州に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し、豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになりました。
間島は清朝の父祖の地である白頭山を含むことから、清朝の聖域だったのですが、前述のとおり多数の朝鮮人農民が入り込んでしまい、引き上げさせることもできないため、結局朝鮮人農民を支那の良民と認め課税することとしました。
一方李氏朝鮮は間島は自国領であると主張し、日露戦争後朝鮮を保護国として外交権を握った日本もこの主張を承継しましたが、1909年、日本と清国の外交交渉の結果、日本は支那における他の権益について譲歩を得るため、清の間島領有を認め間島協約を締結しました。
このような経緯もあり、間島を含む東満州は、1916年以降張作霖とその配下の吉林都督・鮑貴卿が支配していましたが、張作霖の主力部隊は北支方面に投入されていたため、間島にはろくな軍隊は配属されておらず、馬賊や朝鮮匪賊の理想的な根拠地となっていました。
そこで朝鮮軍は、大正9年10月16日に鮑貴卿との間で「日支両軍協同討伐ニ関スル規定」を締結し、東支鉄道以南20支里以外の東寧県と、琿春、延吉、汪清、和龍県四県(間島の殆どの部分)での日本軍の作戦行動を認めさせました。
この規定に基づいて発動されたのが前述の間島出兵で、この討伐作戦は「出動地帯の敵地にあらざりしこと、支那軍隊の妥協的討伐の後を受け賊徒四散せること・・・地域の広範なるに比し兵力僅少時日短小なりしこと等」の諸種の事情により壊滅的打撃を与えることは出来ず、又中心的な人物は逃してしまったものの、「至大の打撃を加えその禍根を芟除し能くその目的を達し相当の効果を収めた(間島出兵史143頁。原文は旧仮名)」とされています(戦果:射殺494名、逮捕607名、鹵獲兵器小銃549、機関銃4、拳銃40等。同書145頁)。
尚このときソ連領まで逃げた洪範図の「大韓独立軍」は、赤軍により武装解除され壊滅します。
間島出兵以降も間島では朝鮮共産党の策謀が続きますが、何れも大量検挙により壊滅しています。
その最後の「徒花」というべきものが、昭和5年5月から翌年春まで断続的に続いた「間島5.30事件」ですが、これは中国共産党の支援を受けた金竽、金槿らが首謀したもので、楊在豊と金一星(キムイルソン。金日成はこの金一星を騙ったものです)が行動隊長となって日本側施設や富裕な朝鮮人、支那人を襲撃しました。
しかし日本人及び日本の施設の被害は意外に少なく、逆に朝鮮人の被害が一番多く支那人がこれに次ぐこと、日時が経過するにつれ掠奪が激増し殺人・拉致は昭和5年7月から12月の間に行なわれていること、しかもその対象は朝鮮人・支那人に限られていたことから、首謀者の意図は別として実際には対日パルチザンというよりは、途中から間島の住民の殆どを占めていた朝鮮人の貧農による一揆や打ち毀しのようなものに変貌していったようです。
なおこの間島5.30事件の参加者は2000人ほどと見積もられていましたが、日支警察の合同捜査により首謀者の金竽、金槿以下68人は5月中に、11月までには更に700余人が検挙されています。
これは メッセージ 27440 (kokusaikouhou666 さん)への返信です.
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