ペルソナさん(八重七重氏の回答)1
投稿者: lilasnosakukoro 投稿日時: 2004/03/11 15:24 投稿番号: [14845 / 44985]
八重七重さんからお返事が来ました。
以下、掲載します。分割は私の判断です。
ペルソナ氏へ
大変ご無沙汰しております。お元気にお過ごしのご様子とか、真に喜ばしい。
このたびは、拙文を丁寧に読み込んでくださり、御礼を申し上げる。その上、御見解をお示しになり意見を求めてくださったことを、光栄に思っております。
以下、思うところを申し述べる。全体としては、貴殿の御意見に、殊更異を唱えたく思うところはない。少し角度を変えて考えてみたいなどなど、その程度の相違だ。どうか、このyaenanae01の一私見と思って、お読みくださるように。
>李朝の衰亡は、明が滅んで清朝が興り、中原が夷狄の手に落ちたため、朝鮮の儒教は支那の亜流であるにもかかわらず、「中華の正統は自分たちだ」と思い、「世界一の礼教体制」を敷いたと勘違いした(本家の中華を凌駕したと考えた)ことも一因ではないかと思います。
私も、このご指摘にはまったく賛成なのだ。李朝体制下の朝鮮民族には、日本人の私には、「何故そこまで?」と思うしかないほどの儒教への拘り(それも、朱子学一辺倒で、陽明学などはまさしく「異端の学問」であったようだ)があった。だからこそ、満州族が建てた清朝に対し著しい反感を持ち、貴殿がおっしゃる「中華の正統は自分たちだ」という思いに取り憑かれ、「世界一の礼教体制」を敷いたと「勘違いした」とことは、まさしく実態であったろう。
しかし、ここで、私は思う。はたして、朱子学に対する強い拘りがあったからこそ、夷狄たる清に反感を持って、「世界一の礼教体制」(相当にまがいもの的要素を持つことは、貴殿のおっしゃる通りだが)なるものに執着したのか。それとも、清に対する反感が先にあって、だからこそ、その反感を正当化する口実として、「中華の正統は自分たちだ」という思い、儒教=朱子学というイデオロギーを押し立てたのか、ということについてだ。
この二つは、結果としては同じ事をもたらすのかもしれぬ。だが、後者、口実としての儒教=朱子学であった場合のほうが、私には救われるような気がする。そこには、少なくとも、民族としての「計算」があるからだ。だが、前者であった場合、それは、朝鮮民族が他国から輸入した思想に魂まで「入れ込んでしまう」可能性を秘めているという危険を示しているような気がする。そして、そもそもその思想を生んだ当事国では成立し得た「批判」(中国では、儒教以外の思想はもちろんあったし、朱子学自体にも、カウンターイデオロギーは成立していたことはご存知の通り)を自らは受けつけないという恐ろしさまでも提示している。そしてその場合、やはり、先の私の疑問、「何故そこまで」という問いが再び浮上する。
以下、掲載します。分割は私の判断です。
ペルソナ氏へ
大変ご無沙汰しております。お元気にお過ごしのご様子とか、真に喜ばしい。
このたびは、拙文を丁寧に読み込んでくださり、御礼を申し上げる。その上、御見解をお示しになり意見を求めてくださったことを、光栄に思っております。
以下、思うところを申し述べる。全体としては、貴殿の御意見に、殊更異を唱えたく思うところはない。少し角度を変えて考えてみたいなどなど、その程度の相違だ。どうか、このyaenanae01の一私見と思って、お読みくださるように。
>李朝の衰亡は、明が滅んで清朝が興り、中原が夷狄の手に落ちたため、朝鮮の儒教は支那の亜流であるにもかかわらず、「中華の正統は自分たちだ」と思い、「世界一の礼教体制」を敷いたと勘違いした(本家の中華を凌駕したと考えた)ことも一因ではないかと思います。
私も、このご指摘にはまったく賛成なのだ。李朝体制下の朝鮮民族には、日本人の私には、「何故そこまで?」と思うしかないほどの儒教への拘り(それも、朱子学一辺倒で、陽明学などはまさしく「異端の学問」であったようだ)があった。だからこそ、満州族が建てた清朝に対し著しい反感を持ち、貴殿がおっしゃる「中華の正統は自分たちだ」という思いに取り憑かれ、「世界一の礼教体制」を敷いたと「勘違いした」とことは、まさしく実態であったろう。
しかし、ここで、私は思う。はたして、朱子学に対する強い拘りがあったからこそ、夷狄たる清に反感を持って、「世界一の礼教体制」(相当にまがいもの的要素を持つことは、貴殿のおっしゃる通りだが)なるものに執着したのか。それとも、清に対する反感が先にあって、だからこそ、その反感を正当化する口実として、「中華の正統は自分たちだ」という思い、儒教=朱子学というイデオロギーを押し立てたのか、ということについてだ。
この二つは、結果としては同じ事をもたらすのかもしれぬ。だが、後者、口実としての儒教=朱子学であった場合のほうが、私には救われるような気がする。そこには、少なくとも、民族としての「計算」があるからだ。だが、前者であった場合、それは、朝鮮民族が他国から輸入した思想に魂まで「入れ込んでしまう」可能性を秘めているという危険を示しているような気がする。そして、そもそもその思想を生んだ当事国では成立し得た「批判」(中国では、儒教以外の思想はもちろんあったし、朱子学自体にも、カウンターイデオロギーは成立していたことはご存知の通り)を自らは受けつけないという恐ろしさまでも提示している。そしてその場合、やはり、先の私の疑問、「何故そこまで」という問いが再び浮上する。
これは メッセージ 14739 (perusonanongrata さん)への返信です.
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