原爆問題(4?)(トピずれ)
投稿者: yaenanae01 投稿日時: 2004/01/19 20:15 投稿番号: [11983 / 44985]
yotaro47氏へ
私の立場を、まず、再度申し上げておこう。
私が、被爆地に縁を持つ者であることは、以前より申し上げている通り。その私であって、11832でtakamako7890氏が
>原爆を難しくカシコぶって考える必要はありません。単なる大きなとてつもなく大きな交通事故です。その場に居合わせたことが、大きな不幸です。
と書かれていることには、頷けるものがある。(わざわざこのようにしかつめらしく書くのは、以上のような意見を述べること自体を、罪悪視する人々もいるからです。お察し頂けると思うが)
また、この私は、日本政府が、「将来に渡って核武装を完全放棄する」のは、危険ではないか、とすら、考えている。必ずしも、実際に核武装する必要はない。「核武装の可能性」を、外交カードとして放棄すべきではない、という意味だ。
だが、その私が、一方では、「核兵器」「被爆者」「爆心地」という言葉を聞くたびに、胸の底にずしりと来るものを感じるのだ。だから、この「ずしりと来るもの」の正体は何か、と、自問自答を続けている。
>「○○大空襲」も同じように生活を破壊されます。しかし、地域全体が同時に一瞬にして消え去るなどということはないのではないか、と私は思うのです。
> 原爆の破壊力は巨大です。
なるほど、現象としての「核兵器による自然・人間生活の破壊」を、その巨大さの故に圧倒的、と言われるのですな。ですが、一つだけは申し上げましょう。原爆によって破壊された広島・長崎と言えど、その焼け跡から、やはり復興したのです。その意味では、少なくとも1945年に使用された核兵器程度の破壊力・及び回数であれば、「地域全体が同時に一瞬にして消え去る」とまでは断言できない。
無論、その後ますます威力を増した核兵器の前では、そんな悠長なことは言っておれない、とのご意見は成り立つであろう。だがそうなると、今度は、各々の核兵器の性能において、その威力の差を云々せざるを得なくなり、ますます議論は机上の空論となってしまう。
兵器としての破壊性という点では、核兵器とその他の兵器の間にある違いは、「相対的」でしかないのではないか、と、非常に苦々しく、私は思う。
> 私は戦災にあった人々を区別しようとしているのではありません。
まったく、その通りですな。
再度掲載するが、takamako7890氏がいみじくも表現されたように、
「単なる大きなとてつもなく大きな交通事故です。その場に居合わせたことが、大きな不幸です」
なのだろうから。
>>もし辛うじて差があるとしたら、それは、被害者側にあるのではなく、原爆を投下した、「加害者」側の意識の違い、かもしれない。
> この考えは私には、よく分かりません。悲劇には差などないと、あなたも仰っています。
これは、私の表現が中途半端だった。
私が、「辛うじて差があるとしたら」と書いた「差」とは、もちろん、被爆者と一般の戦災者の悲劇性の「差」ではない。原爆投下を命じた当事者の意識と、一般の爆弾投下を命じた当事者の意識の間にある「差」のことだ。後者は、あくまでも、自国の勝利を効率よく勝ち取るための手段に過ぎないが、前者には、それに加えて「実験」という要素が加わっていた、と言う意味。人間が、同じ人間に対し、「人体実験」を行った、という点でのみ、原爆投下と、一般の爆撃とには、違いが生じるのだろう。
とはいえ、一般の爆撃に使用された爆弾と言えど、その開発当初には何らかの実験が行われねばならなかっただろうし、行われたであろう。では、その最初の「実験」と原爆投下の間には差があるか? と言われた時、私は再び言葉に窮する。(更に、人間相手の生態実験は非道なものとしながら、それ以外の生物であれば目を瞑るのかと、動物愛護団体から詰め寄られたら? さすがにここまで来ると、私もエゴイストの本性がむくむくと頭をもたげ、「この私は、人間を生態実験の道具とすることに異を唱えるのでせいいっぱい。それ以上のことは、そちら様にお任せする」と突き放すであろうが)
以下、次の投稿へ続く。
私の立場を、まず、再度申し上げておこう。
私が、被爆地に縁を持つ者であることは、以前より申し上げている通り。その私であって、11832でtakamako7890氏が
>原爆を難しくカシコぶって考える必要はありません。単なる大きなとてつもなく大きな交通事故です。その場に居合わせたことが、大きな不幸です。
と書かれていることには、頷けるものがある。(わざわざこのようにしかつめらしく書くのは、以上のような意見を述べること自体を、罪悪視する人々もいるからです。お察し頂けると思うが)
また、この私は、日本政府が、「将来に渡って核武装を完全放棄する」のは、危険ではないか、とすら、考えている。必ずしも、実際に核武装する必要はない。「核武装の可能性」を、外交カードとして放棄すべきではない、という意味だ。
だが、その私が、一方では、「核兵器」「被爆者」「爆心地」という言葉を聞くたびに、胸の底にずしりと来るものを感じるのだ。だから、この「ずしりと来るもの」の正体は何か、と、自問自答を続けている。
>「○○大空襲」も同じように生活を破壊されます。しかし、地域全体が同時に一瞬にして消え去るなどということはないのではないか、と私は思うのです。
> 原爆の破壊力は巨大です。
なるほど、現象としての「核兵器による自然・人間生活の破壊」を、その巨大さの故に圧倒的、と言われるのですな。ですが、一つだけは申し上げましょう。原爆によって破壊された広島・長崎と言えど、その焼け跡から、やはり復興したのです。その意味では、少なくとも1945年に使用された核兵器程度の破壊力・及び回数であれば、「地域全体が同時に一瞬にして消え去る」とまでは断言できない。
無論、その後ますます威力を増した核兵器の前では、そんな悠長なことは言っておれない、とのご意見は成り立つであろう。だがそうなると、今度は、各々の核兵器の性能において、その威力の差を云々せざるを得なくなり、ますます議論は机上の空論となってしまう。
兵器としての破壊性という点では、核兵器とその他の兵器の間にある違いは、「相対的」でしかないのではないか、と、非常に苦々しく、私は思う。
> 私は戦災にあった人々を区別しようとしているのではありません。
まったく、その通りですな。
再度掲載するが、takamako7890氏がいみじくも表現されたように、
「単なる大きなとてつもなく大きな交通事故です。その場に居合わせたことが、大きな不幸です」
なのだろうから。
>>もし辛うじて差があるとしたら、それは、被害者側にあるのではなく、原爆を投下した、「加害者」側の意識の違い、かもしれない。
> この考えは私には、よく分かりません。悲劇には差などないと、あなたも仰っています。
これは、私の表現が中途半端だった。
私が、「辛うじて差があるとしたら」と書いた「差」とは、もちろん、被爆者と一般の戦災者の悲劇性の「差」ではない。原爆投下を命じた当事者の意識と、一般の爆弾投下を命じた当事者の意識の間にある「差」のことだ。後者は、あくまでも、自国の勝利を効率よく勝ち取るための手段に過ぎないが、前者には、それに加えて「実験」という要素が加わっていた、と言う意味。人間が、同じ人間に対し、「人体実験」を行った、という点でのみ、原爆投下と、一般の爆撃とには、違いが生じるのだろう。
とはいえ、一般の爆撃に使用された爆弾と言えど、その開発当初には何らかの実験が行われねばならなかっただろうし、行われたであろう。では、その最初の「実験」と原爆投下の間には差があるか? と言われた時、私は再び言葉に窮する。(更に、人間相手の生態実験は非道なものとしながら、それ以外の生物であれば目を瞑るのかと、動物愛護団体から詰め寄られたら? さすがにここまで来ると、私もエゴイストの本性がむくむくと頭をもたげ、「この私は、人間を生態実験の道具とすることに異を唱えるのでせいいっぱい。それ以上のことは、そちら様にお任せする」と突き放すであろうが)
以下、次の投稿へ続く。
これは メッセージ 11966 (yotaro47j さん)への返信です.
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