oixkozo氏へ(反戦運動2)
投稿者: yaenanae01 投稿日時: 2004/01/12 19:01 投稿番号: [11411 / 44985]
ご返答、ありがとう。
>反戦運動をやりたくなれば、やればいい。
>やめたくなれば、やめればいい。
>また、再開したくなれば、再開すればいい。
>私の若い頃の反戦運動では、若干行き過ぎて、
> 反戦運動を押し付けるような事もあった。
>これは、「反戦」を詐称した戦争行為である。
>「反戦の基準」に関する質問も、結局は同じような答えしか出来ない。
以上の部分から、苦渋のこもった貴殿の自省が伝わってくるような気が、私にはする。率直にお答えくださったことに、感謝申し上げたい。
さはさりながら、私の印象の方も率直に述べなければならないだろう。
上の部分から受け取るに、(少なくとも)貴殿にとっては、「反戦運動」に携わったりお止めになったりする時の基準は、要するにご自身の「その時その時の欲求」や「直感」と感じられるのだが、そうなのだろうか? 私自身は、それはそれで、至極正直な、健全なるお答と思う。(ただし、一つのムーブメントの梃子となるには弱い動機付けだとは、思うけれども)
ところで、貴殿のご返信を読み、nagoyan 2shiki殿のご投稿を読むうちに、ふと疑問が沸いた。通常の(政治学?)用語としては、「反戦運動」とは、「反帝国主義・反米」をスローガンとして掲げたもの(すなわち、アメリカが当事者となっている戦争に対する運動)のみに、狭義に解釈するのだろうか? もしそれならば、貴殿の11377のご投稿には、ますます納得がいく。
>反戦運動の目指したものは、イデオロギーじゃなく、
> 「平和」「自由と民主主義」「平等」じゃないだろうか?(11377より)
とのご意見に対して、貴殿がどう補強されるか、実は待っていた。直接のご返答は頂けなかったが、私自身の考えを申し述べておこう。
私に言わせれば、「平和」も、「自由と民主主義」も、「平等」も、「○○主義」との形に集約される諸々のイデオロギー以上に、内容空疎な、どうとでも解釈できる概念だ。「誰による」、「誰のための」、「どのような内容を指す」平和か、が周知のものとならなければ、胡散臭さを払拭できない。(「自由と民主主義」も、「平等」も、ほぼ同様)現在の日本で反戦活動を行っている人々は、この部分を冷徹に検証しようとせず、一種の気分で運動しているような印象を持たざるを得ないのだ、私としては。
11398で述べた、私の知人についてのエピソードをここでご紹介し、私、貴殿、nagoyan 2shiki殿のみならず、本トピを閲覧しておられる全ての方々の参考材料として頂くことで、本投稿を終わりとする。
知人は、ある時、活動の仲間らと一緒に、アウシュビッツでのユダヤ人迫害に関する写真展を開く運動を展開した。その過程で、南アフリカのアパルトヘイト問題に取り組んでいる人物から、支援を受けたらしい。(アパルトヘイト体制が撤廃される以前の話だ)すると知人は、アウシュビッツ写真展の運動と同時並行で、アパルトヘイト問題に対しても啓蒙運動を始めた。この時私は言ったのだ、アウシュビッツの問題は、それだけでもう、一人の人間の一生を費やしても足りぬ位大きな問題だ。あれやこれやに手を出すのは止め、この問題を掘り下げる方があなたには相応しい、と。すると、知人曰く、「アウシュビッツも、アパルトヘイトも、根本には『差別』の問題がある。一方の差別にだけ取り組み、他方を知らん顔は出来ない。共闘しあってこそ、大きな力が生み出されるはずだ」
……結果としては、知人、私双方が関わっている範囲内では、アウシュビッツ問題も、アパルトヘイト問題も、一過性のものに終わった。(無論、多少とも関わりあった個々人の心の中で何が起こっているかまでは、私には知りようがない)そして知人は、今日も、少数の仲間と語らっては様々のテーマに取り組み、「今の日本人は、社会問題に取り組む意識が薄い。差別の問題に対して、鈍過ぎる」と嘆いている。
>反戦運動をやりたくなれば、やればいい。
>やめたくなれば、やめればいい。
>また、再開したくなれば、再開すればいい。
>私の若い頃の反戦運動では、若干行き過ぎて、
> 反戦運動を押し付けるような事もあった。
>これは、「反戦」を詐称した戦争行為である。
>「反戦の基準」に関する質問も、結局は同じような答えしか出来ない。
以上の部分から、苦渋のこもった貴殿の自省が伝わってくるような気が、私にはする。率直にお答えくださったことに、感謝申し上げたい。
さはさりながら、私の印象の方も率直に述べなければならないだろう。
上の部分から受け取るに、(少なくとも)貴殿にとっては、「反戦運動」に携わったりお止めになったりする時の基準は、要するにご自身の「その時その時の欲求」や「直感」と感じられるのだが、そうなのだろうか? 私自身は、それはそれで、至極正直な、健全なるお答と思う。(ただし、一つのムーブメントの梃子となるには弱い動機付けだとは、思うけれども)
ところで、貴殿のご返信を読み、nagoyan 2shiki殿のご投稿を読むうちに、ふと疑問が沸いた。通常の(政治学?)用語としては、「反戦運動」とは、「反帝国主義・反米」をスローガンとして掲げたもの(すなわち、アメリカが当事者となっている戦争に対する運動)のみに、狭義に解釈するのだろうか? もしそれならば、貴殿の11377のご投稿には、ますます納得がいく。
>反戦運動の目指したものは、イデオロギーじゃなく、
> 「平和」「自由と民主主義」「平等」じゃないだろうか?(11377より)
とのご意見に対して、貴殿がどう補強されるか、実は待っていた。直接のご返答は頂けなかったが、私自身の考えを申し述べておこう。
私に言わせれば、「平和」も、「自由と民主主義」も、「平等」も、「○○主義」との形に集約される諸々のイデオロギー以上に、内容空疎な、どうとでも解釈できる概念だ。「誰による」、「誰のための」、「どのような内容を指す」平和か、が周知のものとならなければ、胡散臭さを払拭できない。(「自由と民主主義」も、「平等」も、ほぼ同様)現在の日本で反戦活動を行っている人々は、この部分を冷徹に検証しようとせず、一種の気分で運動しているような印象を持たざるを得ないのだ、私としては。
11398で述べた、私の知人についてのエピソードをここでご紹介し、私、貴殿、nagoyan 2shiki殿のみならず、本トピを閲覧しておられる全ての方々の参考材料として頂くことで、本投稿を終わりとする。
知人は、ある時、活動の仲間らと一緒に、アウシュビッツでのユダヤ人迫害に関する写真展を開く運動を展開した。その過程で、南アフリカのアパルトヘイト問題に取り組んでいる人物から、支援を受けたらしい。(アパルトヘイト体制が撤廃される以前の話だ)すると知人は、アウシュビッツ写真展の運動と同時並行で、アパルトヘイト問題に対しても啓蒙運動を始めた。この時私は言ったのだ、アウシュビッツの問題は、それだけでもう、一人の人間の一生を費やしても足りぬ位大きな問題だ。あれやこれやに手を出すのは止め、この問題を掘り下げる方があなたには相応しい、と。すると、知人曰く、「アウシュビッツも、アパルトヘイトも、根本には『差別』の問題がある。一方の差別にだけ取り組み、他方を知らん顔は出来ない。共闘しあってこそ、大きな力が生み出されるはずだ」
……結果としては、知人、私双方が関わっている範囲内では、アウシュビッツ問題も、アパルトヘイト問題も、一過性のものに終わった。(無論、多少とも関わりあった個々人の心の中で何が起こっているかまでは、私には知りようがない)そして知人は、今日も、少数の仲間と語らっては様々のテーマに取り組み、「今の日本人は、社会問題に取り組む意識が薄い。差別の問題に対して、鈍過ぎる」と嘆いている。
これは メッセージ 11399 (oixkozo さん)への返信です.
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