保守論というか、ほとんど宗教論もどき
投稿者: chonmage_johney 投稿日時: 2008/03/02 23:32 投稿番号: [66942 / 85019]
こんばんは。綾瀬はるかです。
大学在学中は第2外国語にドイツ語を選択しましたが、イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー【Ich bin ein Berliner. 私はベルリン市民です。】ぐらいしか覚えていません(スペルと訳、合っていますか??)。女性名詞、男性名詞の話でグロッキー状態に陥りました・・・。
そこへきて、
>ゲマインシャフトとゲゼルシャフト
ですかぁ・・・。昨日のお題の方がまだ良かった(苦笑)。
これは難しいなぁ・・・・・・・。
以下、答えられる範囲で。
>>宗教もその1つかもしれないね。
有り体に申し上げて、西洋の場合、宗教(キリスト教)抜きでは考えられないかなと思います。
宗教改革を経て本来のキリスト教に戻り、それまでのタテの契約(神対人間)からヨコの契約(人間対人間)という概念が広まっていき、それは近代資本主義が生まれるきっかけとなったと。おそらく、その昔パウロが提唱した二分法(信仰と行動の峻別)も同時に進んでいったかと想像します。当人同士が対等でないと、売買契約も社会契約も成立しませんから。私は家族や村落等にも何らかの契約があると思っています。そもそも、結婚や親子、家族制度自体、民法などに乗っかった契約。又は法的な関係。だと思っています。村にも村独自の契約があったはずです。
違いを挙げるとすれば、会社や国家などの契約が人間関係からほとんど分離している。あくまで文面勝負なのに対して、村落や家族というのは、まだ血の通ったところがある。少々の契約違反だったら、何らかの赦しが与えられていたということでしょうか。
ですから、
>>「家族及び部落単位の原始共同体=非契約社会であり、非打算性構造」
というロジックが完成しないんだよね。
には同意致します。
西洋史はあまり詳しくないのですが、宗教改革前は、封建的な上下関係が結構支配していて、オスマントルコ帝国(=イスラム文化圏)とかに圧倒的な差をつけられていたと。
で、ここから保守論をどう繋げるかですが・・・・、
>広義の「選民思想」に基づく排他性が前提
キリスト教文化ではこのロジックが通用すると思います。ヨシュア記(旧約聖書)では凄まじい異教徒鏖の場面があります。
【※要は、異教徒は人間に非ずという恐るべき論法。しかし神との契約は絶対。】
ところが、神道では、いつかランディさんも指摘されていたと記憶していますが、敵というか異教徒の存在を前提としていませんよね。況や異教徒殲滅の場面をや。そもそも経典自体がありませんもの。この違いは物凄く大きいと思います。
>本来「共同体」というものは「相互補完」を具現化したものですから
仰りたいことは解るのですが、西洋と日本では幾分事情が異なるような気がします。前者が『契約』が相互補完を担保するのならば、我が国は『約束』ではないかと。「俺の目を見ろ。何にも言うな」式の(笑)。勿論、これはこれでいいのですが、“世界基準”で見れば異質ですよね。そのことを理解しつつ、我が国固有の洗練された文化を守るなら守る(=文化防衛)。という姿勢を見せるのが、本物の国内保守の矜持の一つかな・・・と思います。もちろん、世界基準。とりわけ、貿易とかの取引の場面では、合わせないといけないところは合わせないといけませんが。
>保守が許容する範囲をどこまで具体化出来るか
宗教。もちろん日本の場合は神道(=日本教)になってくるのですが、これが大きなカギを握りそうな気はしますね。その意味でも、私もですが、もっと宗教、特に西洋倫理の礎をなしているキリスト教、及び敵対するイスラム教の本質を学ばないといけないと思います。
インチキ宗教を見破るのにも効果があるでしょう(笑)。
なんか、期待に沿えない散漫な内容に映ったかも知れません。
だとしたら、スミマセンでした。
この問題に関して、宗教は避けて通れないということでひとつ・・・<m(__)m>
※参考文献:『日本人のための宗教原論(徳間書店)』
『日本人のためのイスラム原論(集英社インターナショナル)』
共に、著・小室直樹
大学在学中は第2外国語にドイツ語を選択しましたが、イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー【Ich bin ein Berliner. 私はベルリン市民です。】ぐらいしか覚えていません(スペルと訳、合っていますか??)。女性名詞、男性名詞の話でグロッキー状態に陥りました・・・。
そこへきて、
>ゲマインシャフトとゲゼルシャフト
ですかぁ・・・。昨日のお題の方がまだ良かった(苦笑)。
これは難しいなぁ・・・・・・・。
以下、答えられる範囲で。
>>宗教もその1つかもしれないね。
有り体に申し上げて、西洋の場合、宗教(キリスト教)抜きでは考えられないかなと思います。
宗教改革を経て本来のキリスト教に戻り、それまでのタテの契約(神対人間)からヨコの契約(人間対人間)という概念が広まっていき、それは近代資本主義が生まれるきっかけとなったと。おそらく、その昔パウロが提唱した二分法(信仰と行動の峻別)も同時に進んでいったかと想像します。当人同士が対等でないと、売買契約も社会契約も成立しませんから。私は家族や村落等にも何らかの契約があると思っています。そもそも、結婚や親子、家族制度自体、民法などに乗っかった契約。又は法的な関係。だと思っています。村にも村独自の契約があったはずです。
違いを挙げるとすれば、会社や国家などの契約が人間関係からほとんど分離している。あくまで文面勝負なのに対して、村落や家族というのは、まだ血の通ったところがある。少々の契約違反だったら、何らかの赦しが与えられていたということでしょうか。
ですから、
>>「家族及び部落単位の原始共同体=非契約社会であり、非打算性構造」
というロジックが完成しないんだよね。
には同意致します。
西洋史はあまり詳しくないのですが、宗教改革前は、封建的な上下関係が結構支配していて、オスマントルコ帝国(=イスラム文化圏)とかに圧倒的な差をつけられていたと。
で、ここから保守論をどう繋げるかですが・・・・、
>広義の「選民思想」に基づく排他性が前提
キリスト教文化ではこのロジックが通用すると思います。ヨシュア記(旧約聖書)では凄まじい異教徒鏖の場面があります。
【※要は、異教徒は人間に非ずという恐るべき論法。しかし神との契約は絶対。】
ところが、神道では、いつかランディさんも指摘されていたと記憶していますが、敵というか異教徒の存在を前提としていませんよね。況や異教徒殲滅の場面をや。そもそも経典自体がありませんもの。この違いは物凄く大きいと思います。
>本来「共同体」というものは「相互補完」を具現化したものですから
仰りたいことは解るのですが、西洋と日本では幾分事情が異なるような気がします。前者が『契約』が相互補完を担保するのならば、我が国は『約束』ではないかと。「俺の目を見ろ。何にも言うな」式の(笑)。勿論、これはこれでいいのですが、“世界基準”で見れば異質ですよね。そのことを理解しつつ、我が国固有の洗練された文化を守るなら守る(=文化防衛)。という姿勢を見せるのが、本物の国内保守の矜持の一つかな・・・と思います。もちろん、世界基準。とりわけ、貿易とかの取引の場面では、合わせないといけないところは合わせないといけませんが。
>保守が許容する範囲をどこまで具体化出来るか
宗教。もちろん日本の場合は神道(=日本教)になってくるのですが、これが大きなカギを握りそうな気はしますね。その意味でも、私もですが、もっと宗教、特に西洋倫理の礎をなしているキリスト教、及び敵対するイスラム教の本質を学ばないといけないと思います。
インチキ宗教を見破るのにも効果があるでしょう(笑)。
なんか、期待に沿えない散漫な内容に映ったかも知れません。
だとしたら、スミマセンでした。
この問題に関して、宗教は避けて通れないということでひとつ・・・<m(__)m>
※参考文献:『日本人のための宗教原論(徳間書店)』
『日本人のためのイスラム原論(集英社インターナショナル)』
共に、著・小室直樹
これは メッセージ 66930 (randy_castilloo さん)への返信です.
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