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(10)住民虐殺・虐待-1

投稿者: foryoufor 投稿日時: 2004/10/31 00:30 投稿番号: [3783 / 85019]
アジア太平洋戦争における最初の大規模な残虐事件は、シンガポールの華僑虐殺だった。1942年(昭和17)2月15日にシンガポールの英軍が降伏し、マレー半島全土を日本軍が占領下においた。その直後、第25軍司令官山下奉文は「最も速かに市内の掃蕩作戦を実施し、これ等の敵性華僑を剔出処断」せよという命令を下した(河村参郎『十三階段を上る』亜東書房)。憲兵隊を中心としたシンガポール警備隊が市内の、近衛師団が市内を除くシンガポール島を担当、18歳以上50歳までの華僑男子は21日までの指定された場所に集まるように布告が出された。各検問所では簡単な尋問がおこなわれただけで、「抗日」とみなされた者はトラックに乗せられて郊外の海岸などの運ばれ、機関銃で射殺された。この粛清の事実上の首謀者だった軍参謀辻政信は検問所をまわって、「何をぐずぐずしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ」と憲兵隊を激励してまわった(大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版)。この粛清を指揮したシンガポール警備隊長河村参郎の日記には、粛清の途中の23日に憲兵隊長を集め、そこで「処分人数総計五千名」と報告を受けたことが記されている。

戦後、日本軍関係者が作成した文書では約5000人を「厳重処分」(裁判にかけずに直ちに処刑すること)したとしている。シンガポールでは4〜5万人が虐殺されたとされている。

シンガポール粛清が始まった2月21日、第25軍はマレー半島全域での粛清を命じた(以下、林博史『華僑虐殺』すずさわ書店)。第25軍傘下の第18師団と第5師団はマレー半島各地に移動し、その後約1カ月にわたって粛清をおこなった。 マレー半島南部のネグリセンビラン州とマラッカ州では3月3日から25日まで歩兵第11連隊によって粛清がおこなわれた。「抗日分子」や「抗日ゲリラ」が潜んでいると疑われた村が皆殺しにあった。特に主な道路から離れた、奥まった所の村やゴム園の宿舎がやられた。そのため町にいると危ないと考えて避難してきていた女性や子どもが多数殺された。都市では皆殺しにはできないので、一軒ごとに日本兵がまわって「抗日的」と見なした者を検挙した。日本軍の命令書によると「態度終始不遜ナル者」や「本人ノ存在」が「社会ノ秩序ヲ乱」すと判断した者は処刑せよとされており、検挙されてから郊外に連れて行かれ処刑された。当時、人口が約30万人だったネグリセンビラン州だけで、30数カ所3千数百人の華僑が虐殺された。同州には数十人のゲリラがいたと見られるがかれらはジャングルのなかのキャンプにいて助かった。

日本軍はマレー半島の華僑全体を「抗日的」だとみなし、シンガポール攻略前から粛清の計画を立て実行した。太平洋戦争の初期のこれらの一連の虐殺は、この戦争が中国への侵略戦争の延長線上におこなわれたことを示している。

フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。
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