(8)強制労働と労務動員
投稿者: foryoufor 投稿日時: 2004/10/31 00:06 投稿番号: [3780 / 85019]
日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。
泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。勤労奉仕隊として17万7300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。
泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。
当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきたインドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。
「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。(中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」
カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。
東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、日本軍によって処刑されたケースを多かった。
香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には50〜60万人にまで減少した。その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。
泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。勤労奉仕隊として17万7300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。
泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。
当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきたインドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。
「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。(中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」
カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。
東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、日本軍によって処刑されたケースを多かった。
香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には50〜60万人にまで減少した。その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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