(6)領土拡張と大東亜会議-2
投稿者: foryoufor 投稿日時: 2004/10/31 00:02 投稿番号: [3778 / 85019]
この方針に基づき1943年8月1日ビルマが、10月14日フィリピンが「独立」した。
その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。
六 其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ
(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム
(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム
(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム
(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス
つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。しかもそうしたことは秘密にされた。
このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。
この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。
1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。
1943年11月5〜6日に東京で大東亜会議が開催された。この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。
会議では「大東亜共同宣言」を決議した。この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。
インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。
インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。
その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。
六 其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ
(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム
(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム
(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム
(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス
つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。しかもそうしたことは秘密にされた。
このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。
この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。
1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。
1943年11月5〜6日に東京で大東亜会議が開催された。この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。
会議では「大東亜共同宣言」を決議した。この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。
インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。
インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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