『誇り高き日本人』よ捏造は程々に その2
投稿者: elgfaret 投稿日時: 2007/01/09 06:42 投稿番号: [32045 / 85019]
以下の文は「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー。。。の一部より
>>>「日本人」が成立していない時代の「日本人の美意識」とは?
教科書では、この時代の文化の特徴を以下のように記述している(p64)。
太子の影響を受けて、飛鳥時代に仏教を基礎とする新しい文化がおこった。これを飛鳥文化とよぶ。中国や朝鮮から伝わった新しい文化を積極的に取り入れながら、日本人の美意識に合った建築や美術品がつくられた。
太子が建てた法隆寺は、今に残る世界最古の木造建築であり、調和の取れた優美な姿の五重塔や金堂が、中国では見られない独特の配置で立ち並んでいる。
この時代の建築物や彫刻などの美術品は、残されているものが少ない。そしてそれは法隆寺と飛鳥寺を中心にして残されているのである。
この教科書の著者たちは、この文化を「中国や朝鮮から伝わった新しい文化を積極的に取り入れながら、日本人の美意識に合った建築や美術品がつくられた」と評した。そしてこの評価のし方自身に問題があるのである。
7世紀前半期には、まだ「日本」という国家がない。九州の倭国は日本列島と朝鮮半島にまたがって領土を持ち、その王族や貴族は朝鮮の加羅諸国や百済の王族・貴族との血縁関係を持っていた。また倭国の分国で大和を中心にするいわゆる「大和朝廷」は、倭国より内陸にあるぶんだけ朝鮮諸国との関係は弱いが、この王族や貴族の中には朝鮮新羅の王族・貴族と血縁関係にあるものが多く、新羅とはたびたび双方の使いをやり取りし、唐への遣使も新羅経由であったほどである。
この政治状況ではたして「日本人」という意識があったであろうか。この時代前後に成立した万葉集の言語学的研究により、この時代の日本語はきわめて朝鮮語に近いものである事がわかっているし、朝鮮からの使節の接待においては通訳を必要としないものであったこともわかっている。そしてこのことは当時日本列島に住んでいた人々の多くが、渡来した時期の違いはあれ、中国や朝鮮からの渡来人の子孫であったことや、とりわけ支配階級である王族や貴族たちは渡来人の子孫であるとともに、朝鮮諸国の王族・貴族と婚姻関係で今でも結ばれており、宮廷文化や神社に残された文化などを検証してみれば、それが朝鮮文化そのものであることもわかっている(神社の神楽舞いなどには今でも古代朝鮮の舞いの様式などが残されている)。
こうした時代状況を無視して「日本人の美意識」を問題にすること自身が間違っている。この時代の日本列島の人々の美意識は、朝鮮半島の王族や貴族の美意識と一体だったのである。そしてこのことは、飛鳥時代の建築様式や美術品の様式を調べてみれば一目瞭然である。
(2)「飛鳥文化」は、朝鮮半島の文化の直輸入!!
飛鳥文化を代表する建築は、遺存しているものでは法隆寺だけであるが、遺跡としては飛鳥寺や四天王寺があり、これらの寺院の伽藍配置は、高句麗や新羅の寺院の伽藍配置と酷似していることが指摘されている。そして飛鳥大佛の仏頭や、法隆寺の仏像を見ると、その彫刻様式は中国の南北朝時代の末期の北魏の様式を色濃く受け継いでいる事が従来から指摘されてきた。倭国も大和も北魏との関係を直接持っていたことは史書からは立証できないので、これは北魏と直接と通交関係にあった高句麗や百済や新羅からの影響とかんがえるのが適切であろう。
万葉仮名の起源が朝鮮半島における漢字の表音文字的使用にあった可能性が強いことや、初期律令に朝鮮半島の律令の影響が強いことなどとあいまって、この時代の文化を考える時には、加羅・百済・新羅・高句麗という朝鮮諸国の文化との比較と言う視点を持って研究することが、大事だと思う(これはまだまだ充分ではない。日本文化の研究は歴史研究以上に一国主義だからである)。
>>>「日本人」が成立していない時代の「日本人の美意識」とは?
教科書では、この時代の文化の特徴を以下のように記述している(p64)。
太子の影響を受けて、飛鳥時代に仏教を基礎とする新しい文化がおこった。これを飛鳥文化とよぶ。中国や朝鮮から伝わった新しい文化を積極的に取り入れながら、日本人の美意識に合った建築や美術品がつくられた。
太子が建てた法隆寺は、今に残る世界最古の木造建築であり、調和の取れた優美な姿の五重塔や金堂が、中国では見られない独特の配置で立ち並んでいる。
この時代の建築物や彫刻などの美術品は、残されているものが少ない。そしてそれは法隆寺と飛鳥寺を中心にして残されているのである。
この教科書の著者たちは、この文化を「中国や朝鮮から伝わった新しい文化を積極的に取り入れながら、日本人の美意識に合った建築や美術品がつくられた」と評した。そしてこの評価のし方自身に問題があるのである。
7世紀前半期には、まだ「日本」という国家がない。九州の倭国は日本列島と朝鮮半島にまたがって領土を持ち、その王族や貴族は朝鮮の加羅諸国や百済の王族・貴族との血縁関係を持っていた。また倭国の分国で大和を中心にするいわゆる「大和朝廷」は、倭国より内陸にあるぶんだけ朝鮮諸国との関係は弱いが、この王族や貴族の中には朝鮮新羅の王族・貴族と血縁関係にあるものが多く、新羅とはたびたび双方の使いをやり取りし、唐への遣使も新羅経由であったほどである。
この政治状況ではたして「日本人」という意識があったであろうか。この時代前後に成立した万葉集の言語学的研究により、この時代の日本語はきわめて朝鮮語に近いものである事がわかっているし、朝鮮からの使節の接待においては通訳を必要としないものであったこともわかっている。そしてこのことは当時日本列島に住んでいた人々の多くが、渡来した時期の違いはあれ、中国や朝鮮からの渡来人の子孫であったことや、とりわけ支配階級である王族や貴族たちは渡来人の子孫であるとともに、朝鮮諸国の王族・貴族と婚姻関係で今でも結ばれており、宮廷文化や神社に残された文化などを検証してみれば、それが朝鮮文化そのものであることもわかっている(神社の神楽舞いなどには今でも古代朝鮮の舞いの様式などが残されている)。
こうした時代状況を無視して「日本人の美意識」を問題にすること自身が間違っている。この時代の日本列島の人々の美意識は、朝鮮半島の王族や貴族の美意識と一体だったのである。そしてこのことは、飛鳥時代の建築様式や美術品の様式を調べてみれば一目瞭然である。
(2)「飛鳥文化」は、朝鮮半島の文化の直輸入!!
飛鳥文化を代表する建築は、遺存しているものでは法隆寺だけであるが、遺跡としては飛鳥寺や四天王寺があり、これらの寺院の伽藍配置は、高句麗や新羅の寺院の伽藍配置と酷似していることが指摘されている。そして飛鳥大佛の仏頭や、法隆寺の仏像を見ると、その彫刻様式は中国の南北朝時代の末期の北魏の様式を色濃く受け継いでいる事が従来から指摘されてきた。倭国も大和も北魏との関係を直接持っていたことは史書からは立証できないので、これは北魏と直接と通交関係にあった高句麗や百済や新羅からの影響とかんがえるのが適切であろう。
万葉仮名の起源が朝鮮半島における漢字の表音文字的使用にあった可能性が強いことや、初期律令に朝鮮半島の律令の影響が強いことなどとあいまって、この時代の文化を考える時には、加羅・百済・新羅・高句麗という朝鮮諸国の文化との比較と言う視点を持って研究することが、大事だと思う(これはまだまだ充分ではない。日本文化の研究は歴史研究以上に一国主義だからである)。
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