満州事変80年でサイバー攻撃

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Re: 満州国は日本の植民ではなかった

投稿者: iikodayo118118 投稿日時: 2011/09/24 14:45 投稿番号: [69 / 142]
No.67の末尾から
満州人が十七世紀初頭、万里の長城を越え、中国を征服し清国を建てたのち、満州はず
っと「封禁の地」として漢人の入植が禁止されてきた。中国人にとっても、古来から満州
の地は「荒蕪」あるいは「夷狄」の地として恐れられ、あえて長城を越えて移住するような者はいなかった。そこにいたのはモンゴル系、ツングース系などの北方民族のほか、封禁を犯して、盗墾、盗掘、盗漁、盗採をはたらくような漢人か、鴨緑江以南で農地を得ら
れなかった朝鮮人だけである。漢人の入植が解禁されたのは、清末に発生した回教徒の反乱以後のことである。やがて北からロシア人、東から日本人がこの地に入ってきた。
日露戦争後、満州は両国によって南北に分けられ、日露の勢力下に置かれた。ドイツとフランスを合わせた広さに相当するこの土地は、ちょうどその欧州の二つの国と同じ緯度にあった。そこに多民族共生の「合衆国」、すなわち満州国が諸民族によってつくられた。
それは満州事変以後のことである。
満州国を日本の植民地、傀儡国家だと見なすのは、明らかに建国の背景を無視した言説であり、歴史の歪曲である。日本人が満州国の建国、復国に最大の情熱を傾けたことは事実であり、ただ単に関東軍の陰謀という「陰謀史観」で語り尽くせるものでもない。清王
朝崩壊後の満州は匪賊が跋扈し軍閥が民衆から厳しく税金を取りたてていた。満州の民衆にとって「保境安民」こそ心から望むものであり、満州合衆国の建国には民意と時代の潮流を見なければならない。
日露戦争後の満州史を、日本軍の「侵略、虐殺、略奪、搾取」の歴史と見なし、「反満抗日」のみで語るのは明らかに歴史の捏造である。そもそも関内(長城の内)の中国人にとて、関外あるいは塞外(長城の外)の地は荒蕪の地であり、瘴癘   (風土病)の地でもあった。
二十世紀に入っても、新たに開拓する土地であり、日本の租借地であった関東州(遼東半島)と満鉄所属地以外、近代産業らしいものもなかった。
しかし、満州国建国後十三年半にして、そこは北東アジアの重工業の中心地となり、自動車や飛行機まで作られる一大近代産業国家にまで成長した。それは人類史上、奇跡としか言いようがない。日本人の開国維新以来のすべての情熱と技術の粋をそそぎ込んだ結晶といってよいし、日本人は誇りに思わなければならない。
満州合衆国は、わずか十三年半にして大日本帝国の崩壊とともに夭逝した。建国の理想であった「王道楽土」を実現することはできなかったとしても、中国人にとっては十分
「桃源郷」であった。少なくとも、戦乱と飢餓の拡大の繰り返しによって絶望の淵に追いやられていた中国の流民にとって、満州国こそ最後の駆け込み寺であった。年間百万あまりの流民が長城を乗り越え、満州に流入したことがその何よりの証拠である。
なぜこれほどの移民が流れていったのか。現中国からすれば満州は日本帝国の「植民地」であり「傀儡国家」だったのではないのか。その答えは、中国人が満州の近現代史を語る
うえで最も閉口してしまう点だ。
満州国の夭逝は、アジアの人々にとって悲劇であった。そればかりでなく、中国人にと
っても悲劇であった。多民族共生をめざした合衆国の喪失は、戦後アジアの新興多民族国
家のモデルの喪失であるばかりでなく、中国人にとっては、近代国家とは何かという問い
すら失わせてしまった。今日にいたってなお前近代的な「中華帝国の亡霊」が東アジアの大地に徘徊しているのは、そのためである。
それでも満州国は巨大な遺産を残した。毛沢東はかつて「かりにすべての根拠地を失っても、東北さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と語った。実際、戦後の満州は中国の重工業生産の九割を占めた。満州国の遺産をめぐる国共内戦は三年もかかり、最後は中共の手に入り、中華人民共和国が樹立された。中華人民共和国を支えてきたのは、
満州国の遺産であった。満州国の遺産を食いつぶしたのち始められたのが、新しい路線転
換である改革開放路線である。
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