「識見と節度」と「過激と愛嬌」(2)
投稿者: rykutukgi 投稿日時: 2001/10/17 23:05 投稿番号: [2079 / 28311]
・朝日新聞
■新聞週間――過激にして愛嬌ありたし
「宮武外骨(がいこつ)という人がいた。讃岐国(現香川県)の庄屋の息子で、明治20(1887)年、東京で「頓智(とんち)協会雑誌」を出す。21歳のときだった。」
「過激にして愛嬌(あいきょう)あり。
明治34年に大阪で「滑稽(こっけい)新聞」を発刊したが、その編集方針がこれだった。」
対する朝日のキーワードは「過激」と「愛嬌」。朝日の文章力のうまさは、そのイントロにあります。我々は歴史、伝統に弱く、畏怖の念を感じてしまうものです。また、今まで知らなかったなら、それが有用かどうかは別にして、新しい知識を得て賢くなったと言う気持ちになれる、知っている事項なら自分の知識を再確認する、いずれにしても知的満足が得られます。このように古い話を軽いトーンで始められると、多くの読者が無意識のうちに畏怖の念を感じながら、得した気分で読めます。
「「過激」な記事を書きにくい時代だ。ある人たちの利益は、別のグループの不利益になる。だれかに関心があっても、別の人には無関心ということも多い。
一方で、それと矛盾するようだが、この複雑な社会があるとき突然、いっせいに特定の方向に向くこともある。そんなとき、先頭に立って旗を振るのが新聞の役目というのでは、情けない。
過激という言葉を英語のラディカルに置き換えてみよう。「過激派」ともなるが、根本的、根源的という意味もある。
事柄の背景を、いつも根本にさかのぼって見極める努力をする。そういう意味で私たちも「過激」でありたい。
一方で、人間は感情の動物である。同じことを言われても、あの人なら納得して、この人だと腹が立つ。説得力をもつには、論じる側に「愛嬌」が必要となる。
頓智も滑稽も、今ならユーモアだろう。日本の社会に現在でも不足しがちな要素だが、外骨は早くからそれに目をつけた。
ただ、愛嬌は多分に生まれつきのものだ。それが足りないからといって、努力でカバーしにくいところが悩ましい。
過激と愛嬌。この二つをセットで据えたのがジャーナリズムの先達である外骨の見識である。時代を超えて参考になる。
21世紀に入って最初の新聞週間に、そんな思いを新たにする。」
朝日の普段の文章はこうありたいという、朝日自身の希望や柔らかい口調で書かれています。非常にすばらしい内容です。読売のように四角四面の優等生を気取り、事実をたれ流すだけではなく、読者に理解されるよう朝日から読者に近づいてゆく姿勢があることを語っています。この文を読めば普段どうして朝日の方が、事実を正しく伝えるよりも、わかりやすさを優先するすばらしく感動的な文章を書くのかが理解できます。
「過激」と「愛嬌」。まさに私の朝日新聞に対するイメージにピッタリです。政治家や役人を感情的になじり、つくる会西尾氏への経歴をみての個人批判、文部省の検討を合格した教科書への社説・記事あげての不採択キャンペーン、中共の軍備増強を容認し、そのことを非難する防衛庁への非難、北朝鮮のミサイル開発を黙認し、攻撃ミサイルへの対抗のための防衛手段であるミサイル防衛構想への非難、それにネット上のアンケートで不都合な結果が出た際の削除の早さ。理性をかなぐり捨てたこじつけと感情的非難は「過激」と言う言葉がピッタリです。また、読者の目を引く「脅威、脅威、脅威」といった特異な見出し、女性の立場を装いながら貫かれる女性軽視でちゃかした論調、読者の喜ぶ結果を作り出す頼もしいアンケート。まさに朝日の記事論調は「過激」と「愛嬌」であふれています。
記事だけでなく、朝日新聞関係者も「過激」と「愛嬌」のある人たちばかりです。下半身を見せる記者、タクシードライバーに暴力をふるう記者、薬中の記者、珊瑚に傷をつける記者等々。「愛嬌は多分に生まれつきのものだ。それが足りないからといって、努力でカバーしにくいところが悩ましい」と謙遜していますが、朝日関係者は「過激」と「愛嬌」のある人ばかりのようです。朝日関係者の「過激」と「愛嬌」を詳しく知りたい人は下記の朝日新聞社史をご覧下さい。
http://www.geocities.com/gikoneko_1/asahikoudoku/asahistory.htm
「識見と節度」と「過激と愛嬌」。みなさんはどちらが好きですか?
■新聞週間――過激にして愛嬌ありたし
「宮武外骨(がいこつ)という人がいた。讃岐国(現香川県)の庄屋の息子で、明治20(1887)年、東京で「頓智(とんち)協会雑誌」を出す。21歳のときだった。」
「過激にして愛嬌(あいきょう)あり。
明治34年に大阪で「滑稽(こっけい)新聞」を発刊したが、その編集方針がこれだった。」
対する朝日のキーワードは「過激」と「愛嬌」。朝日の文章力のうまさは、そのイントロにあります。我々は歴史、伝統に弱く、畏怖の念を感じてしまうものです。また、今まで知らなかったなら、それが有用かどうかは別にして、新しい知識を得て賢くなったと言う気持ちになれる、知っている事項なら自分の知識を再確認する、いずれにしても知的満足が得られます。このように古い話を軽いトーンで始められると、多くの読者が無意識のうちに畏怖の念を感じながら、得した気分で読めます。
「「過激」な記事を書きにくい時代だ。ある人たちの利益は、別のグループの不利益になる。だれかに関心があっても、別の人には無関心ということも多い。
一方で、それと矛盾するようだが、この複雑な社会があるとき突然、いっせいに特定の方向に向くこともある。そんなとき、先頭に立って旗を振るのが新聞の役目というのでは、情けない。
過激という言葉を英語のラディカルに置き換えてみよう。「過激派」ともなるが、根本的、根源的という意味もある。
事柄の背景を、いつも根本にさかのぼって見極める努力をする。そういう意味で私たちも「過激」でありたい。
一方で、人間は感情の動物である。同じことを言われても、あの人なら納得して、この人だと腹が立つ。説得力をもつには、論じる側に「愛嬌」が必要となる。
頓智も滑稽も、今ならユーモアだろう。日本の社会に現在でも不足しがちな要素だが、外骨は早くからそれに目をつけた。
ただ、愛嬌は多分に生まれつきのものだ。それが足りないからといって、努力でカバーしにくいところが悩ましい。
過激と愛嬌。この二つをセットで据えたのがジャーナリズムの先達である外骨の見識である。時代を超えて参考になる。
21世紀に入って最初の新聞週間に、そんな思いを新たにする。」
朝日の普段の文章はこうありたいという、朝日自身の希望や柔らかい口調で書かれています。非常にすばらしい内容です。読売のように四角四面の優等生を気取り、事実をたれ流すだけではなく、読者に理解されるよう朝日から読者に近づいてゆく姿勢があることを語っています。この文を読めば普段どうして朝日の方が、事実を正しく伝えるよりも、わかりやすさを優先するすばらしく感動的な文章を書くのかが理解できます。
「過激」と「愛嬌」。まさに私の朝日新聞に対するイメージにピッタリです。政治家や役人を感情的になじり、つくる会西尾氏への経歴をみての個人批判、文部省の検討を合格した教科書への社説・記事あげての不採択キャンペーン、中共の軍備増強を容認し、そのことを非難する防衛庁への非難、北朝鮮のミサイル開発を黙認し、攻撃ミサイルへの対抗のための防衛手段であるミサイル防衛構想への非難、それにネット上のアンケートで不都合な結果が出た際の削除の早さ。理性をかなぐり捨てたこじつけと感情的非難は「過激」と言う言葉がピッタリです。また、読者の目を引く「脅威、脅威、脅威」といった特異な見出し、女性の立場を装いながら貫かれる女性軽視でちゃかした論調、読者の喜ぶ結果を作り出す頼もしいアンケート。まさに朝日の記事論調は「過激」と「愛嬌」であふれています。
記事だけでなく、朝日新聞関係者も「過激」と「愛嬌」のある人たちばかりです。下半身を見せる記者、タクシードライバーに暴力をふるう記者、薬中の記者、珊瑚に傷をつける記者等々。「愛嬌は多分に生まれつきのものだ。それが足りないからといって、努力でカバーしにくいところが悩ましい」と謙遜していますが、朝日関係者は「過激」と「愛嬌」のある人ばかりのようです。朝日関係者の「過激」と「愛嬌」を詳しく知りたい人は下記の朝日新聞社史をご覧下さい。
http://www.geocities.com/gikoneko_1/asahikoudoku/asahistory.htm
「識見と節度」と「過激と愛嬌」。みなさんはどちらが好きですか?
これは メッセージ 2078 (rykutukgi さん)への返信です.