Re: 日清講和と尖閣列島の地位 P33
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2011/07/25 07:37 投稿番号: [26 / 61]
館を通じて、匯接日本にたいし、講和を提継するよ・ワ要求
し(一丁一七、ダンの国務省報告)グレシヤム長官は、ワ
シントン駐在清国公使揚儒にたいして、その旨伝えた()
】■ニ〇)。揚儒も、アメリカ歌府が日清間の講和を勧め、
速やかに使節を派遺して、兵を息めるよ・っにとの意向であ
る旨、本国敦府に打電報告した(光緬二〇年一一月)T)。
(=lyllllls lslslisll af lil Usltla Stltll. ISdAll~abl
pp.71 4tl蔵版、日木外交文贋第一一七粉3第二冊、四八九頁以T、笛ハ
ー一号以F.漕季外交¥檻(溝季外交史料附刊之涸)巻一、十一河(同ハ葉)
かくて湾国政府は、北京駐在デンビー臨時代理公使及
ぴ東京駐在ダン公恍を介して、全権名を通告して来た(一
八九回こ二こ一〇、ヂンビーよりダンあて電雅)(2tこれに先
きだち、張蔭岨、鄙友漉両全権の日本派遣に関する隋国皇
帝の日本天塁あて国書も作成された(光柿二〇・こ)・四、11
八九四・一丁三〇)7)。似しこれは全権委任状ではない。
ついで清帝は、両全権にたいし、『会商ノ事件、有ュル
応一一鏃スベキ各節、凡ソ日本ノ請フ所ぺ均シク随時電奏
セシム』との上諭を死した(4)。(光緒二〇こニこ○、)
八九五■一・五)このような制約があっては、采して全権
の名に価するかの問鰯となる。
卯日本外交文嘴前掃、五屈oヌ、第八六九号
4柵禿羞塀呻日交乖火料、・一←七(光錯ニ〇年)‘ハ罵!一一ハ’勿
哨月h、一尺葉、第ニニ○笠号、柵季外交年鑑、前揚、第一冊、巻一、囚九集
一一。9の条
日本が閣鏃決定により、尖閣列島を沖縄県の所瞎として
標杭を建てることにしたのは、これより間もなくのことで
あった(閣縫決定は、明治二八、一八九五・一・一四)張蔭桓
那友瞭等清国全権団が上海出港、海路長崎、馬関、神戸、
宇品経出、会議地の広島に到着したのは、それより十七日
後のことである(丁=二){5}。
叫旅途にっき、中a交渉史料、巻一一九、ヨ五集第二Ξ四七号(張陰桐等葦獲一、
光緒二〇・こ7二八、{八九五一一一一一Ξ}赳0妻、第こ二五九号’嘸筆唄、
同友一坐電、元闘こ〇■一二こ二〇。一八九五■一こ一瓦}。日本外交文書、第二
八巷附。蔚、nll¥g、笛九六七号(一八九一n一一・二I己及び舘九六八号2
(一・ほ)一。一=一頁。隋九七二号(一■二八)第九七匹号2・三〇)
日本政府は、清国両全権が正規の仝権委任状を携行せず
全権の資格がないことは、両全権の広島到着以前、これを
察知して外交経路を通じて、関係国政府に通達したのであ
るが(一■三〇)果して日本全梅伊藤博文(首相)陸奥宗
光(外相)は、初次の会兄で(二I一)梢国全権の提示した
国茜は、いずれも全権委任状ではなく、また全権の委任を
示すものではないとして、これを返戻し、和議に入ること
を拒絶した(6)。かくて情国両全権は、広島を出発し
(ニ・四)長綺より号国の途についた(ニこニ)。
し(一丁一七、ダンの国務省報告)グレシヤム長官は、ワ
シントン駐在清国公使揚儒にたいして、その旨伝えた()
】■ニ〇)。揚儒も、アメリカ歌府が日清間の講和を勧め、
速やかに使節を派遺して、兵を息めるよ・っにとの意向であ
る旨、本国敦府に打電報告した(光緬二〇年一一月)T)。
(=lyllllls lslslisll af lil Usltla Stltll. ISdAll~abl
pp.71 4tl蔵版、日木外交文贋第一一七粉3第二冊、四八九頁以T、笛ハ
ー一号以F.漕季外交¥檻(溝季外交史料附刊之涸)巻一、十一河(同ハ葉)
かくて湾国政府は、北京駐在デンビー臨時代理公使及
ぴ東京駐在ダン公恍を介して、全権名を通告して来た(一
八九回こ二こ一〇、ヂンビーよりダンあて電雅)(2tこれに先
きだち、張蔭岨、鄙友漉両全権の日本派遣に関する隋国皇
帝の日本天塁あて国書も作成された(光柿二〇・こ)・四、11
八九四・一丁三〇)7)。似しこれは全権委任状ではない。
ついで清帝は、両全権にたいし、『会商ノ事件、有ュル
応一一鏃スベキ各節、凡ソ日本ノ請フ所ぺ均シク随時電奏
セシム』との上諭を死した(4)。(光緒二〇こニこ○、)
八九五■一・五)このような制約があっては、采して全権
の名に価するかの問鰯となる。
卯日本外交文嘴前掃、五屈oヌ、第八六九号
4柵禿羞塀呻日交乖火料、・一←七(光錯ニ〇年)‘ハ罵!一一ハ’勿
哨月h、一尺葉、第ニニ○笠号、柵季外交年鑑、前揚、第一冊、巻一、囚九集
一一。9の条
日本が閣鏃決定により、尖閣列島を沖縄県の所瞎として
標杭を建てることにしたのは、これより間もなくのことで
あった(閣縫決定は、明治二八、一八九五・一・一四)張蔭桓
那友瞭等清国全権団が上海出港、海路長崎、馬関、神戸、
宇品経出、会議地の広島に到着したのは、それより十七日
後のことである(丁=二){5}。
叫旅途にっき、中a交渉史料、巻一一九、ヨ五集第二Ξ四七号(張陰桐等葦獲一、
光緒二〇・こ7二八、{八九五一一一一一Ξ}赳0妻、第こ二五九号’嘸筆唄、
同友一坐電、元闘こ〇■一二こ二〇。一八九五■一こ一瓦}。日本外交文書、第二
八巷附。蔚、nll¥g、笛九六七号(一八九一n一一・二I己及び舘九六八号2
(一・ほ)一。一=一頁。隋九七二号(一■二八)第九七匹号2・三〇)
日本政府は、清国両全権が正規の仝権委任状を携行せず
全権の資格がないことは、両全権の広島到着以前、これを
察知して外交経路を通じて、関係国政府に通達したのであ
るが(一■三〇)果して日本全梅伊藤博文(首相)陸奥宗
光(外相)は、初次の会兄で(二I一)梢国全権の提示した
国茜は、いずれも全権委任状ではなく、また全権の委任を
示すものではないとして、これを返戻し、和議に入ること
を拒絶した(6)。かくて情国両全権は、広島を出発し
(ニ・四)長綺より号国の途についた(ニこニ)。
これは メッセージ 25 (senkaku_islands さん)への返信です.
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