尖閣諸島は日本の領土である

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Re: 尖閣諸島研究会 16P

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2011/07/20 06:20 投稿番号: [24 / 61]
本は領土編入後、すでにのぺたごとく実効的支配を尖閣列島に対し継続的に及ぽしており、列島の自然環境、居住性、経済的価値を考慮するならば、すでに戦前早くからわが国の領有権原を確立するに十分なものがあったと結論しうのである。また、戦後において同列島がその他の南西諸島とともに日本の領有権原を認められたまま、アメリカ合衆国の管轄区城に含められ、アメリカ民政府および琉球政府によって引続き実効的支配が及ぼされてきたことは上述したごとくである。

尖閣列島が日本の領士であることはまた世界的にも広く知られている、たとえば、いずれもパーソロミュー版の地図である昭和27年(1952年)の「The Citizens Atlas of the World」尖閣列島を日本鎖に色分けしており、昭和33
年(1958年)の「The Times Atlas of the World」は、Senkaku Gunto(尖閣群島)昭和43年(1968年)の「World Series(China。 Mongolia &Korea)」では、Senkaku Shoto(尖閣蹟島)と日本語の発音でローマナイズしている
(注:この地図では島嶼名も日本音で綴り、Koubi (黄尾)Akao(赤尾)としている。ただし赤尾は正確にはセキビと発音する)。さらに昭和35年(1960年)のブリタニカ「The World Atlas」は Seakaku lslands、昭和42年(1967年)のモスクワ版英文地図「The World Atlas」は Senkaku Gunto と書き、昭和43年(1968年)のワルシャワ版英文地図「Pergamon World Atlas」も Sakau Shotoとしている。


反対に中華民国は、ごく最近まで尖閣列島に対する自国の領有権をあきらかに否定してきた。たとえば、民国43年(1954年)基隆市文献委員会編の「基隆市志」は、同市に所属する七個の島嶼名をあげているが、その中に尖
閣列島を含めていないだけでなく、綿花、花瓶、彭佳の三島嶼すら基降市の行歌区域に入るようになったのは明治38年年(1905年)以後であることをあきらかにしている。同様に民国54年(1965年)の「台湾省地方自治誌要」およぴ民国57年(1968年)「中華民国年鑑」も戦後の台湾省の北限もしくは極北を尖閣列島よリ150キロも台湾に近い彭佳嶼であると明記している。さき
の「台湾省地方自治誌要」によれば、さらに日清戦争前(明代および清代)の台湾省の北限が鶏龍嶼であるとされ、また、彭佳嶼などが台湾省の範囲に入れられたのは「基隆市志」と同様に、日本か台湾を統治していた時代であると説明している。

中華人民共和国も同様に、1953年1月8日の人民日報において琉球群島を定義し、その中に尖閣列島を明示的に含めているが、そこでは従来の中国名である魚釣台にかえて「尖閣諸島」といった言葉を用いており、また1964年の「中華人民共和国分省地図」でも、台湾省の北端を、尖閣列島ではなく、彭佳嶼であると説明している。

このように過去において列島が行政上に台湾省の一部として中国によって扱われていなかったことから、尖閣列島か台湾の付属諸島とみなされていなかったことはあきらかである。昭和27年(1952年)4月の日華平和条約締結に際して、あるいは同列島がサン・フランシスコ平和条約第3条に含まれていたことに関連して、中華民国政府、中華人民共和国政府がいかなる抗議をもおこなわなかったことは、列島が両政府によって台湾の付属諸島とみなされていなかったことをさらに裏付けているといえよう。

いずれにせよ中国は、中華民国と中華人民共和国をも含めて、尖閣列島に実効的支配を及ぼしてきたことはなかった。それゆえ両政府が尖閣列島に対する日本の領有権原に異議を申立てることは、国際法上認められるものでないと結論しうるのである。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)