Re: 子供 ? 子ども ? こども ?
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/23 01:41 投稿番号: [371 / 735]
なんだバカバカしい。
お供の供とおなじ字だから気にくわないとは桃太郎のレベルだ。
それなら「ども」は「野郎ども」の「ども」とおなじだということにもなりかね
ない。「源流の一つは」とあるから、まさかそればかりではなかろうけれど。
そのあと塩原さんはこう書いていらっしゃる。
〔「子供」は字の形の通り“人”と“共に”いることなしには生きて
ゆけない未熟な存在だ。大人や社会の付属物であるがゆえに、まさに
保護され、教育され、しつけられて、人となるべき対象なのである。
比ゆ抜きに言えば、永遠に「子供」である者などいない、
だれもが親や世間にもみしだかれ磨き上げられて「供」たる身の上を
通過してゆくのである。〕
はじめの〔「子供」は、字の形の通り・・・・・〕云々の箇所、あとに
「比ゆ抜きに言えば」とあるところを見ると、多分冗談のつもりなのだろう。
しかし冗談にしてはずいぶんまじめな調子で言っているし、大新聞の校閲部長
が書いていることだからと、なかには本気にする読者もあるかもしれない。
冗談は冗談らしく言ったほうがいい。
「子供」の「供」は人*と共*にいるの意だ、というようなのを「民衆字源」
あるいは「字源俗解」という。米はお百姓の手が八十八回かかっているから
「米」と書くのだ、とか、努力の「努」のは女のマタの力、命を生み出す母の
力の意味だ、とかいうのが字源俗解である。日本人の字源解は、なにしろ外国
の文字のなりたちを日本語でかんがえるのだから、みなムチャクチャである。
わたしがこれまでに見た民衆字源説の最高傑作は「儲」の解釈だった。
この字は「信」と「者」とかな成る、信ずる者が儲けることができるの意
だ、というのである。よくこんな奇抜なことを思いつくものよと感心した。
儲(ちょ)は天子のあとつぎ、つまり皇太子である。それを日本では「もうけ
のきみ」と言う。その「もうけ」が金もうけのほうへ流用されたのである。
だいいち「儲」は「ニンベンに諸」であって「信ヘンに者」ではない。
「子供」は「人と共にあるもの」というのも、まあ「信ずる者はもうける」
にちかい。
塩原さんのお話はそのあといろいろ論があって、とどのつまり〔今こそ
ドモは「子供」と書かなくてはならないのである〕というのが結論である。
子供の「供」はお供の供だからけしからん、の説を見た時は、
こんな軽薄な連中といっしょになって「子ども」と書くのがイヤになった。
ところが〔今こそコドモは「子供」と書かなくてはならないのである〕とおご
そかに言われると、こんどは「子供」と書くのも気がすすまなくなってきた。
困ったね。今後は「こども」にいたしますか。
――了――
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お供の供とおなじ字だから気にくわないとは桃太郎のレベルだ。
それなら「ども」は「野郎ども」の「ども」とおなじだということにもなりかね
ない。「源流の一つは」とあるから、まさかそればかりではなかろうけれど。
そのあと塩原さんはこう書いていらっしゃる。
〔「子供」は字の形の通り“人”と“共に”いることなしには生きて
ゆけない未熟な存在だ。大人や社会の付属物であるがゆえに、まさに
保護され、教育され、しつけられて、人となるべき対象なのである。
比ゆ抜きに言えば、永遠に「子供」である者などいない、
だれもが親や世間にもみしだかれ磨き上げられて「供」たる身の上を
通過してゆくのである。〕
はじめの〔「子供」は、字の形の通り・・・・・〕云々の箇所、あとに
「比ゆ抜きに言えば」とあるところを見ると、多分冗談のつもりなのだろう。
しかし冗談にしてはずいぶんまじめな調子で言っているし、大新聞の校閲部長
が書いていることだからと、なかには本気にする読者もあるかもしれない。
冗談は冗談らしく言ったほうがいい。
「子供」の「供」は人*と共*にいるの意だ、というようなのを「民衆字源」
あるいは「字源俗解」という。米はお百姓の手が八十八回かかっているから
「米」と書くのだ、とか、努力の「努」のは女のマタの力、命を生み出す母の
力の意味だ、とかいうのが字源俗解である。日本人の字源解は、なにしろ外国
の文字のなりたちを日本語でかんがえるのだから、みなムチャクチャである。
わたしがこれまでに見た民衆字源説の最高傑作は「儲」の解釈だった。
この字は「信」と「者」とかな成る、信ずる者が儲けることができるの意
だ、というのである。よくこんな奇抜なことを思いつくものよと感心した。
儲(ちょ)は天子のあとつぎ、つまり皇太子である。それを日本では「もうけ
のきみ」と言う。その「もうけ」が金もうけのほうへ流用されたのである。
だいいち「儲」は「ニンベンに諸」であって「信ヘンに者」ではない。
「子供」は「人と共にあるもの」というのも、まあ「信ずる者はもうける」
にちかい。
塩原さんのお話はそのあといろいろ論があって、とどのつまり〔今こそ
ドモは「子供」と書かなくてはならないのである〕というのが結論である。
子供の「供」はお供の供だからけしからん、の説を見た時は、
こんな軽薄な連中といっしょになって「子ども」と書くのがイヤになった。
ところが〔今こそコドモは「子供」と書かなくてはならないのである〕とおご
そかに言われると、こんどは「子供」と書くのも気がすすまなくなってきた。
困ったね。今後は「こども」にいたしますか。
――了――
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これは メッセージ 370 (ajisai110701 さん)への返信です.
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