Re: 忠臣蔵
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2008/01/09 20:05 投稿番号: [1423 / 3149]
今年の初詣客は史上最高で一億人に近いらしい。参詣する者を「客」というのもおかしな表現だが、なぁに、行くほうだって毎年の惰性で足が向くだけで、「信心」などはありゃしない。「客」というのがあたっているだろう。だいいち、年に何度も「お参り」をすればこそ、元旦の「初詣」という言葉が成立する理屈なのだが、大抵の人は年の初めの一回こっきりであとはテコでも行く気遣いはない。安直な信心もあったものだ。わたしは無信仰だから子供の頃に親に連れられて行ったきりだ。
台湾の三義の知り合いの家で、キレイな日本語を話す主人が宗教のパンフだの写真を持ち出してきて盛んに説明をしていた。その写真、祭壇の蝋燭の上に小さな観音様の姿がハッキリ浮かんでいたが、ピントが違っていて、どう見てもネガを重ねて焼いた合成写真である。私だってまるっきりのバカではないから神妙に頷いて、ご主人の面子を立てたのは世渡りの「分別」というものである。
宗教の話は取り止めもなくなるから中止して「忠臣蔵」に移行しよう。これも東映映画だが、そのカットは大石内蔵助が自邸で書きものをしているシーンから始まる。やがて大石は大声で妻「りく」を呼ぶ。内蔵助は片岡知恵蔵、「りく」は小暮実千代で、両人ともドンビシャリ、これ以上の嵌まり役はない。「りく」は廊下で、武家の奥方の作法通りにお辞儀をして顔をあげる≪こんな女房がいまの日本にいるかぁ?≫。 内蔵助、机の書き物に目を落としたまま、倅の「力」がいるかと問う。「まだ、稽古より戻りませぬ」。内蔵助は返事もせず、机の「書き物」を畳の上に置き、僅かに手を動かして「りく」に差し出す。「して、…去り状じゃ」。かねての覚悟で「りく」は動揺を見せない。見せないが、そこは一流の女優であるから眼で万感の演技をするのである。
さて、この「三下り半」、「去り状」とは何ぞや。unhoo先生あたりは別として、外国人にはまず理解できないと思うがどうだろうか。学がないからわからないが、外国にも時代によって似たような習慣があったかも知れない。なにしろ、男の簡単な手紙一枚で理由も言い訳もなしに離婚が成立するのである。また、この「去り状」がないと、女は再婚もできないというから恐ろしい話だ。
廊下に座って頭を下げている妻に、「して、…去り状じゃ」とは、凄い時代があったものである。「かっこいい」などと言ったら女に睨みつけられる。
台湾の三義の知り合いの家で、キレイな日本語を話す主人が宗教のパンフだの写真を持ち出してきて盛んに説明をしていた。その写真、祭壇の蝋燭の上に小さな観音様の姿がハッキリ浮かんでいたが、ピントが違っていて、どう見てもネガを重ねて焼いた合成写真である。私だってまるっきりのバカではないから神妙に頷いて、ご主人の面子を立てたのは世渡りの「分別」というものである。
宗教の話は取り止めもなくなるから中止して「忠臣蔵」に移行しよう。これも東映映画だが、そのカットは大石内蔵助が自邸で書きものをしているシーンから始まる。やがて大石は大声で妻「りく」を呼ぶ。内蔵助は片岡知恵蔵、「りく」は小暮実千代で、両人ともドンビシャリ、これ以上の嵌まり役はない。「りく」は廊下で、武家の奥方の作法通りにお辞儀をして顔をあげる≪こんな女房がいまの日本にいるかぁ?≫。 内蔵助、机の書き物に目を落としたまま、倅の「力」がいるかと問う。「まだ、稽古より戻りませぬ」。内蔵助は返事もせず、机の「書き物」を畳の上に置き、僅かに手を動かして「りく」に差し出す。「して、…去り状じゃ」。かねての覚悟で「りく」は動揺を見せない。見せないが、そこは一流の女優であるから眼で万感の演技をするのである。
さて、この「三下り半」、「去り状」とは何ぞや。unhoo先生あたりは別として、外国人にはまず理解できないと思うがどうだろうか。学がないからわからないが、外国にも時代によって似たような習慣があったかも知れない。なにしろ、男の簡単な手紙一枚で理由も言い訳もなしに離婚が成立するのである。また、この「去り状」がないと、女は再婚もできないというから恐ろしい話だ。
廊下に座って頭を下げている妻に、「して、…去り状じゃ」とは、凄い時代があったものである。「かっこいい」などと言ったら女に睨みつけられる。
これは メッセージ 1421 (unhoo さん)への返信です.
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