李朝朝鮮

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Re: これが欧米のやり方

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/05/15 21:58 投稿番号: [790 / 1329]
いつも分かり易い説明で、理解の助けになります。
中国・インドと英国が出たので、日本と朝鮮を取り巻く欧米・中国との関係について。
次の本を読んでいると、朝鮮半島の歴史は欧州・日本が後退しただけで、現在も中国・ロシアの巻き返しと米国との確執が続いていると感じました。
六カ国協議は、形を変えた「朝鮮半島利権会議」みたいなものですからね。(笑)
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林房雄著「大東亜戦争肯定論」より
『日韓併合   朝鮮を狙ったのは日本だけではない
(前略)
当時、朝鮮を属領視していた清帝国の実力とロシア帝国の南下政策、および間接にこの半島を狙っていた英、米、仏の圧力であった。
  これが、日本弁護の詭弁でないことを証明するためには、まず歴史年表について見よう。
  一八六〇年(万延元年)、英仏連合軍北京に侵入。ロシアはその調停を口実にして、清国の沿海州を割譲させた。一八六一年、ロシア艦隊対馬を占領。幕府はイギリスに頼んで、半年後にこれを退去させた。一八六七年(慶応三年)、フランスはカンボジアを保護国とした。
  以上は、幕末の事件だが、維新以後の年表によれば、まず明治四年、ロシアは清国のイリ地方を占領。明治五年、千島と交換の名義でカラフトを領有。明治六年、ニコライエフスク鎮守府をウラジオストックに移し、海軍根拠地とした。
  明治十六年、フランスは清国と戦い、安南を保護国とし、つづいてカンボジアその他を併合して総督政治をしいた。この時、フランスは日本自由党員の一部に金百万円と東洋艦隊を貸与し、清国の半属領たる朝鮮攪乱を計画したが、日本政府の反対をうけて断念した。
  明治十八年、イギリスはビルマを征服、さらに朝鮮巨文島を占領したが、日・清・露の抗議により二年後に撤退。明治二十年、ポルトガルはアモイを占領した。
  日清戦争はこのような国際的背景の中で戦われ、勝利は日本に帰したが、たちまちロシアを先頭とする「三国干渉」の反撃を受け、遼東半島を還付し、朝鮮からの後退を余儀なくされた。
  明治二十九年、三国干渉の直後、ロシアはモスクワで李鴻章と交渉、ウラジオストックに達する東清鉄道敷設権を獲得。同時に露支攻守同盟の密約を結んだ。
明治三十年、ロシアは遼東半島を、イギリスは威海衛を租借。さらにロシアは釜山港外の絶影島を租借しようとし、日本の反撃によって失敗。同年、イギリスは香港対岸の九竜を租借。明治三十二年、ロシアは朝鮮随一の良港馬山浦に土地数十万坪を買収し軍港にしようとしたが、日本の妨害で中止。フランスは広州湾を租借。
  明治三十五年、鴨緑江下流の竜岩浦を租借し、砲塁を築造し、九連城、鳳凰城に一旅団の兵を駐屯させた。
  右のような前提と環境の中で日露戦争は戦われ、朝鮮併合は用意されたのだ。左翼史家は、明治九年の江華島事件(朝鮮軍による日本軍艦の砲撃)を好機として、日本が韓国に強制した「修好条約」が不平等条約であることを指摘して日本の帝国主義的侵略の開始を強調するが、右にあげた諸条件の中では、むしろそれは清国とロシアの圧力に対する日本の自衛と抵抗であったと見ることのほうが正しい。間にはさまれた朝鮮にとっては、激憤以外の何物をも生まぬ屈辱にちがいないが、私はこの日本の膨張政策も併合後わずか三十五年で崩壊したことに注目したい。
  この歴史の歩みの早さを、私たち明治生まれの者は、自分の目で見て来た。しかも、日本敗戦によって解放され、独立したはずの朝鮮は完全に二分され、北にはソ連または中共、南にはアメリカの圧力がかかっている。歴史とはこのように非情なものだ。』−続く
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