崇儒廃仏
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2006/11/18 22:37 投稿番号: [495 / 1329]
三日月城通信で崇儒廃仏も興味深い内容でした。
http://wiki.livedoor.jp/crescent_castle/d/%bf%f2%bc%f4%c7%d1%ca%a9
元々、李成桂を担ぎ上げた勢力は儒臣が中心になって居たために、高麗の国教であった仏教を排斥し(高麗時代、仏教は国家の上にあったと言われている。)、儒教を広めると言うのが国是に成っていた。
しかし、なかなか浸透しなかった様で、悪戦苦闘している様は李氏朝鮮の歴史を追っていくとよく分かる。
まず、崇儒廃仏を始めた、太祖李成桂自体が、息子達の殺し合い(第一次、第二次王子の乱)に嫌気をさして譲位して出家してしまう。死ぬまで念仏を唱えて生活していたと言われている。自分の息子を殺した息子である第三代太宗とは仲が悪く、その後和解したもののやはり廃仏政策に反対し、対立していた。
こういう事情があり、廃仏政策は太宗、その後の世宗時代に入らないと大きく進展しない。
この時代に宗派の統廃合、寺院の取り壊し、廃止、領地の取り上げなどが行われ(2宗派242寺までに減らされた。また、石仏を破壊し石橋の礎石にしたりした。)、廃仏政策は大きく進んだかに見えた。
しかし、世宗は元々からだが弱かったためか、晩年になるとやはり仏教に帰依してしまう。
つまり、王宮内にも仏教と言うものは根強く残っており完全には根絶できなかったわけである。
次に廃仏が進むのは安定期と言われる睿宗から成宗にかけての時代である。この時代に僧科(僧侶に成るための資格試験)が廃止され、仏寺はわずか2,3のみと言う状態になる。
しかし、その後の世祖の時代になると逆に儒教を弾圧し、仏教を保護する政策に転換している。これは世祖即位の過程に原因があると言われている。世租は甥である端宗から王位を纂奪しため、儒教的にはかなり負い目を持っていた。その為儒臣勢力を押さえ込む為に反儒臣勢力を取り込み、仏教を振興した。
しかし、この政策も世租の孫の燕山君の時代になると再び仏教弾圧へと歯車が動く。李氏朝鮮一の暴君と言われる燕山君は、世租の立てた仏寺を取り壊し、妓生の役所を建てるなどしソウル内の仏寺を破壊している。
しかし、世租の取り立てた家臣の子孫(旧勳派と言われる。この時代より新興儒臣である、士林派と対立していく)と言うのは、世租のDNAを受け継ぐものであり仏教に帰依するものも数が少なくなかったと思われる。
そう言う理由で、旧勳派が支配していた世租から明宗までの時代は廃仏政策は割と軟化している様である。
中宗期も廃仏(燕山君に破壊された民家を建て直す為に仏寺を破壊)をしていたものの中宗の三番目の王妃である文定王后は仏教を信仰していた為に矛盾が生じていたようである。中宗が亡くなり、明宗の時代に入ると、文定王后が摂政を行っていたので、王宮内にも深く仏教が入り込んでいた。文定王后は、一部の僧侶を優遇し、科挙の中に僧科を復活させようとまでした。僧科の復活は家臣の猛反対に遭い挫折する。また文定王后の死により、僧侶の弾圧が行われ、廃仏政策がようやく起動に乗り始める。従って廃仏が完全に既定路線となるのは新興儒臣である士林派が中枢権力を掌握した宣租の時代からになる。宣租の即位が1567 年であるので、ここに至るまで170年ぐらいかかっている訳である。
しかし、宣租期に入っても廃仏政策が徹底されていたわけではない。秀吉の朝鮮出兵や仁租期には清軍の侵入などがあり、内政どころではなかったからである。義勇兵として弾圧していた仏僧の力を借りた事もあり(逆に秀吉軍に呼応して反乱を起こした勢力もある)、仏僧を使役に使う代わりに信仰を見逃すと言う方向性が出来てくるのがこの時代である。しかし、宣租期から仁租期までは戦乱の時代であり、内政・外交ともに混沌としていたため、廃仏政策の完成は、仁租期の三田渡の屈辱(1636年)より後と言う事になる。この時代に僧侶は城内に入れなくなり、尼僧は強制的に還俗させられている。
結果的に仏教が完全に山奥に追いやられたのは江戸時代に入ってからの様である。
しかしながら李氏朝鮮は仏僧を言うのは労働力として利用した為に仏教は完全に根絶されることは無く開国に至る。
http://wiki.livedoor.jp/crescent_castle/d/%bf%f2%bc%f4%c7%d1%ca%a9
元々、李成桂を担ぎ上げた勢力は儒臣が中心になって居たために、高麗の国教であった仏教を排斥し(高麗時代、仏教は国家の上にあったと言われている。)、儒教を広めると言うのが国是に成っていた。
しかし、なかなか浸透しなかった様で、悪戦苦闘している様は李氏朝鮮の歴史を追っていくとよく分かる。
まず、崇儒廃仏を始めた、太祖李成桂自体が、息子達の殺し合い(第一次、第二次王子の乱)に嫌気をさして譲位して出家してしまう。死ぬまで念仏を唱えて生活していたと言われている。自分の息子を殺した息子である第三代太宗とは仲が悪く、その後和解したもののやはり廃仏政策に反対し、対立していた。
こういう事情があり、廃仏政策は太宗、その後の世宗時代に入らないと大きく進展しない。
この時代に宗派の統廃合、寺院の取り壊し、廃止、領地の取り上げなどが行われ(2宗派242寺までに減らされた。また、石仏を破壊し石橋の礎石にしたりした。)、廃仏政策は大きく進んだかに見えた。
しかし、世宗は元々からだが弱かったためか、晩年になるとやはり仏教に帰依してしまう。
つまり、王宮内にも仏教と言うものは根強く残っており完全には根絶できなかったわけである。
次に廃仏が進むのは安定期と言われる睿宗から成宗にかけての時代である。この時代に僧科(僧侶に成るための資格試験)が廃止され、仏寺はわずか2,3のみと言う状態になる。
しかし、その後の世祖の時代になると逆に儒教を弾圧し、仏教を保護する政策に転換している。これは世祖即位の過程に原因があると言われている。世租は甥である端宗から王位を纂奪しため、儒教的にはかなり負い目を持っていた。その為儒臣勢力を押さえ込む為に反儒臣勢力を取り込み、仏教を振興した。
しかし、この政策も世租の孫の燕山君の時代になると再び仏教弾圧へと歯車が動く。李氏朝鮮一の暴君と言われる燕山君は、世租の立てた仏寺を取り壊し、妓生の役所を建てるなどしソウル内の仏寺を破壊している。
しかし、世租の取り立てた家臣の子孫(旧勳派と言われる。この時代より新興儒臣である、士林派と対立していく)と言うのは、世租のDNAを受け継ぐものであり仏教に帰依するものも数が少なくなかったと思われる。
そう言う理由で、旧勳派が支配していた世租から明宗までの時代は廃仏政策は割と軟化している様である。
中宗期も廃仏(燕山君に破壊された民家を建て直す為に仏寺を破壊)をしていたものの中宗の三番目の王妃である文定王后は仏教を信仰していた為に矛盾が生じていたようである。中宗が亡くなり、明宗の時代に入ると、文定王后が摂政を行っていたので、王宮内にも深く仏教が入り込んでいた。文定王后は、一部の僧侶を優遇し、科挙の中に僧科を復活させようとまでした。僧科の復活は家臣の猛反対に遭い挫折する。また文定王后の死により、僧侶の弾圧が行われ、廃仏政策がようやく起動に乗り始める。従って廃仏が完全に既定路線となるのは新興儒臣である士林派が中枢権力を掌握した宣租の時代からになる。宣租の即位が1567 年であるので、ここに至るまで170年ぐらいかかっている訳である。
しかし、宣租期に入っても廃仏政策が徹底されていたわけではない。秀吉の朝鮮出兵や仁租期には清軍の侵入などがあり、内政どころではなかったからである。義勇兵として弾圧していた仏僧の力を借りた事もあり(逆に秀吉軍に呼応して反乱を起こした勢力もある)、仏僧を使役に使う代わりに信仰を見逃すと言う方向性が出来てくるのがこの時代である。しかし、宣租期から仁租期までは戦乱の時代であり、内政・外交ともに混沌としていたため、廃仏政策の完成は、仁租期の三田渡の屈辱(1636年)より後と言う事になる。この時代に僧侶は城内に入れなくなり、尼僧は強制的に還俗させられている。
結果的に仏教が完全に山奥に追いやられたのは江戸時代に入ってからの様である。
しかしながら李氏朝鮮は仏僧を言うのは労働力として利用した為に仏教は完全に根絶されることは無く開国に至る。
これは メッセージ 466 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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