清渓川(チョンゲチョン)2
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2008/07/09 20:32 投稿番号: [1184 / 1329]
http://tour.junggu.seoul.kr/japanese/culture/natural_cgcheon_his02.php
>清渓川の処理問題が本格的に考慮されたのは1931年以降、日本が満州事変・中日戦争・太平洋戦争へと突き進み、朝鮮を大陸への兵站基地とし、京城をその中心地としたのがその理由だった。いわゆる‘大京城計画’というものだったが、1934年市街地計画令を契機としてソウルを全般的に改造する構想が本格化したのである。清渓川の全面覆蓋構想は1935年初めて発表された。当時、京城部の町田土木課長は清渓川を全面的に覆蓋し、道路を作り、その上にさらに高架鉄道を造る構想を発表した。
>大京城計画にあった永登浦(ヨンドゥンポ)を始め、1郡8面が新しく京城に編入されることが実現した場合、当時の施設だけでは増え続ける交通の需要を満たすことができないという判断だった。しかし民間の交通手段よりももっと重要なものとして考慮されたのは、軍部の交通需要であった。龍山・永登浦の工業地帯で生産される軍需物資を満州へ迅速に輸送するためには、京城−義州間、また京城−元山間の道路と鉄道の整備が必要で、土地接収に費用のかからない清渓川を新しい道路・鉄道として活用しようという構想だった。しかし、この構想は財政の問題を理由に朝鮮鉄道局が拒否し、挫折した。
1936年には広橋と三角庭(サムカッチョン)の間を優先的に覆蓋する案が提出された。これは、1937年から五年間に渡って光化門(クァンファムン)郵便局−三角庭間を覆蓋するという計画だった。同時に覆蓋後清渓川を自動車専用道路にしようという案も提出された。また、1942年からは三角亭の東側地域の清渓川を改修する計画が立てられた。
>清渓川の全面覆蓋案は1940年代に日本が立てたものだが、戦争に追われていた日本がこの計画を完遂するのは不可能だった。植民地時代に日本が覆蓋した区間は光化門十字路−広通橋(クァントンギョ)の区間に止まった。1945年8月15日終戦後、大韓民国政府樹立までは政治的に混乱していて、建設はほぼ中断された状態であった。したがって、ソウルの下水路は放任状態に等しく、下水路の維持事業もろくに出来ないほどの財政状態であった。続いて北朝鮮による韓国侵略で史上最悪の惨禍を浴び、12,400mの下水道施設も被害を蒙った。清渓川は1942年第二次世界大戦勃発と前後して十年に近い月日の間放任状態に置かれ、土砂の埋没が酷かった。
>清渓川の処理問題が本格的に考慮されたのは1931年以降、日本が満州事変・中日戦争・太平洋戦争へと突き進み、朝鮮を大陸への兵站基地とし、京城をその中心地としたのがその理由だった。いわゆる‘大京城計画’というものだったが、1934年市街地計画令を契機としてソウルを全般的に改造する構想が本格化したのである。清渓川の全面覆蓋構想は1935年初めて発表された。当時、京城部の町田土木課長は清渓川を全面的に覆蓋し、道路を作り、その上にさらに高架鉄道を造る構想を発表した。
>大京城計画にあった永登浦(ヨンドゥンポ)を始め、1郡8面が新しく京城に編入されることが実現した場合、当時の施設だけでは増え続ける交通の需要を満たすことができないという判断だった。しかし民間の交通手段よりももっと重要なものとして考慮されたのは、軍部の交通需要であった。龍山・永登浦の工業地帯で生産される軍需物資を満州へ迅速に輸送するためには、京城−義州間、また京城−元山間の道路と鉄道の整備が必要で、土地接収に費用のかからない清渓川を新しい道路・鉄道として活用しようという構想だった。しかし、この構想は財政の問題を理由に朝鮮鉄道局が拒否し、挫折した。
1936年には広橋と三角庭(サムカッチョン)の間を優先的に覆蓋する案が提出された。これは、1937年から五年間に渡って光化門(クァンファムン)郵便局−三角庭間を覆蓋するという計画だった。同時に覆蓋後清渓川を自動車専用道路にしようという案も提出された。また、1942年からは三角亭の東側地域の清渓川を改修する計画が立てられた。
>清渓川の全面覆蓋案は1940年代に日本が立てたものだが、戦争に追われていた日本がこの計画を完遂するのは不可能だった。植民地時代に日本が覆蓋した区間は光化門十字路−広通橋(クァントンギョ)の区間に止まった。1945年8月15日終戦後、大韓民国政府樹立までは政治的に混乱していて、建設はほぼ中断された状態であった。したがって、ソウルの下水路は放任状態に等しく、下水路の維持事業もろくに出来ないほどの財政状態であった。続いて北朝鮮による韓国侵略で史上最悪の惨禍を浴び、12,400mの下水道施設も被害を蒙った。清渓川は1942年第二次世界大戦勃発と前後して十年に近い月日の間放任状態に置かれ、土砂の埋没が酷かった。
これは メッセージ 1183 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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