清渓川(チョンゲチョン)
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2008/07/09 20:11 投稿番号: [1183 / 1329]
http://tour.junggu.seoul.kr/japanese/culture/natural_cgcheon_his01.php
>清渓川流域は総面積50.96㎢で、ソウルの中心に位置し、1394年ソウルが朝鮮王朝の都に定められて以降、都城の中を単に地理的にというだけではなく、政治・社会・文化においても地域を区分する象徴的な境界線として働いた。
>一方清渓川は、最適な自然の下水道でもあった。朝鮮初期、その用途を巡った論争もあったが、世宗の時代には、清渓川の用途は下水道として定着した。しかしこのような用途は朝鮮後期に人口が増加し、頻繁に自然災害が発生するようになるとその存在意義を無くす根本的な背景となった。
文禄慶長の役と丙子胡乱(1636年丙子の年、清の浸入による乱)でソウルの人口は増加し、下水量も増えた。
___________________________
引っかかったのが、
>1908年に大韓帝国(1897〜1910)政府によって最後に行われてから、1918年まで10年間、浚渫事業は施行されなかった。日本は清渓川を悪意でもって放置した後、事業を再開したのは、朝鮮支配の中枢を朝鮮と大韓帝国の中心部であったソウルに移転する準備が具体的に整ってからだった。
悪意からなんでしょうか?朝鮮が貧乏すぎて、日本もお金を出す余裕がなかったからとか、もうちょっとはっきりした理由が欲しいわ〜
>1918年、約25万ウォンの経費を費やして浚渫工事に着手したのは、‘京城(植民地時代のソウルの名前)’の下水問題を解決するという機能的な意味の他に、朝鮮支配の基盤を作る意図もあった。以降、清渓川浚渫工事は随時に行われた。
1910年代、土地調査事業が完了し、1920年代には米生産増殖計画が実施され、朝鮮の農村の人口過剰は深刻な社会問題となり、農村を離れた農民たちがソウルに集まり、清渓川堤防には無許可の人家がぎっしり並ぶことになった。こうして清渓川の川辺はソウルの代表的な人口密集地域となった。
やっぱり、日本の統治時代、お米の生産が増えてそれを食べた朝鮮人の人口が増えてるって、ちゃんとあちらは知ってるのね。
>清渓川流域は総面積50.96㎢で、ソウルの中心に位置し、1394年ソウルが朝鮮王朝の都に定められて以降、都城の中を単に地理的にというだけではなく、政治・社会・文化においても地域を区分する象徴的な境界線として働いた。
>一方清渓川は、最適な自然の下水道でもあった。朝鮮初期、その用途を巡った論争もあったが、世宗の時代には、清渓川の用途は下水道として定着した。しかしこのような用途は朝鮮後期に人口が増加し、頻繁に自然災害が発生するようになるとその存在意義を無くす根本的な背景となった。
文禄慶長の役と丙子胡乱(1636年丙子の年、清の浸入による乱)でソウルの人口は増加し、下水量も増えた。
___________________________
引っかかったのが、
>1908年に大韓帝国(1897〜1910)政府によって最後に行われてから、1918年まで10年間、浚渫事業は施行されなかった。日本は清渓川を悪意でもって放置した後、事業を再開したのは、朝鮮支配の中枢を朝鮮と大韓帝国の中心部であったソウルに移転する準備が具体的に整ってからだった。
悪意からなんでしょうか?朝鮮が貧乏すぎて、日本もお金を出す余裕がなかったからとか、もうちょっとはっきりした理由が欲しいわ〜
>1918年、約25万ウォンの経費を費やして浚渫工事に着手したのは、‘京城(植民地時代のソウルの名前)’の下水問題を解決するという機能的な意味の他に、朝鮮支配の基盤を作る意図もあった。以降、清渓川浚渫工事は随時に行われた。
1910年代、土地調査事業が完了し、1920年代には米生産増殖計画が実施され、朝鮮の農村の人口過剰は深刻な社会問題となり、農村を離れた農民たちがソウルに集まり、清渓川堤防には無許可の人家がぎっしり並ぶことになった。こうして清渓川の川辺はソウルの代表的な人口密集地域となった。
やっぱり、日本の統治時代、お米の生産が増えてそれを食べた朝鮮人の人口が増えてるって、ちゃんとあちらは知ってるのね。
これは メッセージ 1 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/mfbdabdabaaf_1/1183.html