開戦
投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2006/11/16 11:48 投稿番号: [32 / 2701]
1950年6月25日、季節は梅雨に入りこの日も雨が降っていたといわれている。演習と称して国境付近に集合していた北朝鮮軍は、この悪天候を利用して北朝鮮軍は、火砲600門、迫撃砲1000門を以って攻撃準備射撃後、歩兵7個師団と戦車1個旅団が左右にわかれて全域で38度線を突破した。
左翼を担当し、ソウルを目標とする北朝鮮第1軍団は、西から第6師団、第1師団、第4師団、第3師団がソウルを包囲する形で進撃し、後方から第105戦車旅団がこれを支援した。一方の半島東部では北朝鮮第2軍団が配備され、第2師団、第7師団、第5師団が南に進撃を開始した。またこれとは別に、第766部隊、第549部隊が後方撹乱の目的で江陵の南に奇襲上陸した。
対する韓国軍は、部隊改編の直後であり、かつ6月11日に出されていた非常警戒令が解除されてほとんどの部隊で外出や休暇が許可され、加えて前日の6月24日には軍の高級幹部を集めたパーティーが催されていたこともあって、満足な反撃を行なえないまま壊走する部隊が多く、特に北朝鮮第一軍の攻勢正面では、供与されていた2,36インチロケットランチャーではソ連製戦車の突進を止める事が出来ず、首都ソウルは侵攻から僅か3日で北朝鮮軍の侵入を許してしまう。しかし北朝鮮第2軍は、韓国軍の頑強な抵抗と山がちな地形に前進を阻まれ、ソウル周辺で韓国軍主力を捕捉撃滅する事ができずにいた。だがここで韓国軍は、ソウルの南に架かる漢江橋を町から脱出する難民もろとも爆破してしまう。この行為によって退路を断たれたソウル防衛任務についていた韓国軍は戦意を喪失し、戦線が瓦解してしまう結果となり、ソウルは多くの一般市民を残したまま北朝鮮軍の手に落ちる。
国連安保理は、25日午後2時(韓国時間午前26日)、北朝鮮軍の進攻を侵略行為と規定し、北朝鮮軍の撤退を求めたが、北朝鮮軍はこの決議を無視し、進撃を止めようとはしなかった。東京のマッカーサー元帥から韓国軍崩壊の危機と李承晩からの救援要請があったことを告げられたトルーマン大統領は、それまでの不干渉姿勢を改め、27日には極東に配置されていた米海空軍に対し、38度線以南にいる北朝鮮軍に対し攻撃を指令する。指令を受けた米極東空軍は直ちに出撃し、27日早朝にソウル近郊の金浦空港から撤退する輸送機の護衛任務を開始する。この作戦中、F-82ツインムスタングが北朝鮮軍のYak7戦闘機を撃墜し、朝鮮戦争での初撃墜を記録。午後には、F-80シューティングスターがIl10攻撃機を撃墜し、米空軍初のジェット戦闘機による撃墜を果たす。首都ソウルを占領された28日からは北朝鮮地上軍に対する攻撃が開始され、これらの出撃はすべて日本から行なわれた。F-80の攻撃機としての能力は主に行動半径のせいで十分ではなかったが、当時の韓国国内にはジェット戦闘機の運用が可能な航空基地が存在せず、アメリカ国内では当面の作戦の為に退役の進んでいたF-51ムスタングが急遽集められ、現役に復帰させることになる。
米極東海軍は28日から日本海に展開して半島の東海岸へ向けて艦砲射撃を行い、南下中の北朝鮮第5師団の行動を阻害する。7月3日には米空母ヴァリー・フォージ(27,100t)と英空母トライアンフ(13,350t)から発艦した攻撃機が平壌の飛行場を爆撃する。この戦闘で米海軍のF9Fパンサーが北朝鮮軍のYak9戦闘機を撃墜し、米海軍ジェット戦闘機の初陣を勝利で飾った。
米ソ全面戦争への危機感から地上軍の派遣を渋っていたトルーマン大統領であったが、マッカーサー元帥の現地視察空の報告を受けて遂に地上部隊の投入を決定し、6月30日には日本に駐留していた第24師団に出撃命令を下し、追って第25師団、第1騎兵師団(共に日本駐留部隊)にも出撃命令を下す。
ソウル周辺を征圧した北朝鮮軍は、不思議な事に進撃をストップさせ、首脳部はソウル政庁で戦傷祝賀会を2日にわたって行なうなど貴重な時間を無為に過ごしてしまう。これが、後に言われる事になる「謎の三日間」である。結局ソウルで3日、米軍投入決定の知らせを聞いて再度南進を行なう準備に2日と、計5日の貴重な時間を韓国軍に与えてしまい、この間に緒戦の奇襲攻撃の優位性を失い韓国軍に立ち直らせるきっかけを与え、かつ米軍投入までの時間さえも与えてしまう。やっと7月3日未明に南進を再開した北朝鮮軍は、7月5日早朝、投入された米地上軍と放火を交える。
しかし、不思議な民族だ。
左翼を担当し、ソウルを目標とする北朝鮮第1軍団は、西から第6師団、第1師団、第4師団、第3師団がソウルを包囲する形で進撃し、後方から第105戦車旅団がこれを支援した。一方の半島東部では北朝鮮第2軍団が配備され、第2師団、第7師団、第5師団が南に進撃を開始した。またこれとは別に、第766部隊、第549部隊が後方撹乱の目的で江陵の南に奇襲上陸した。
対する韓国軍は、部隊改編の直後であり、かつ6月11日に出されていた非常警戒令が解除されてほとんどの部隊で外出や休暇が許可され、加えて前日の6月24日には軍の高級幹部を集めたパーティーが催されていたこともあって、満足な反撃を行なえないまま壊走する部隊が多く、特に北朝鮮第一軍の攻勢正面では、供与されていた2,36インチロケットランチャーではソ連製戦車の突進を止める事が出来ず、首都ソウルは侵攻から僅か3日で北朝鮮軍の侵入を許してしまう。しかし北朝鮮第2軍は、韓国軍の頑強な抵抗と山がちな地形に前進を阻まれ、ソウル周辺で韓国軍主力を捕捉撃滅する事ができずにいた。だがここで韓国軍は、ソウルの南に架かる漢江橋を町から脱出する難民もろとも爆破してしまう。この行為によって退路を断たれたソウル防衛任務についていた韓国軍は戦意を喪失し、戦線が瓦解してしまう結果となり、ソウルは多くの一般市民を残したまま北朝鮮軍の手に落ちる。
国連安保理は、25日午後2時(韓国時間午前26日)、北朝鮮軍の進攻を侵略行為と規定し、北朝鮮軍の撤退を求めたが、北朝鮮軍はこの決議を無視し、進撃を止めようとはしなかった。東京のマッカーサー元帥から韓国軍崩壊の危機と李承晩からの救援要請があったことを告げられたトルーマン大統領は、それまでの不干渉姿勢を改め、27日には極東に配置されていた米海空軍に対し、38度線以南にいる北朝鮮軍に対し攻撃を指令する。指令を受けた米極東空軍は直ちに出撃し、27日早朝にソウル近郊の金浦空港から撤退する輸送機の護衛任務を開始する。この作戦中、F-82ツインムスタングが北朝鮮軍のYak7戦闘機を撃墜し、朝鮮戦争での初撃墜を記録。午後には、F-80シューティングスターがIl10攻撃機を撃墜し、米空軍初のジェット戦闘機による撃墜を果たす。首都ソウルを占領された28日からは北朝鮮地上軍に対する攻撃が開始され、これらの出撃はすべて日本から行なわれた。F-80の攻撃機としての能力は主に行動半径のせいで十分ではなかったが、当時の韓国国内にはジェット戦闘機の運用が可能な航空基地が存在せず、アメリカ国内では当面の作戦の為に退役の進んでいたF-51ムスタングが急遽集められ、現役に復帰させることになる。
米極東海軍は28日から日本海に展開して半島の東海岸へ向けて艦砲射撃を行い、南下中の北朝鮮第5師団の行動を阻害する。7月3日には米空母ヴァリー・フォージ(27,100t)と英空母トライアンフ(13,350t)から発艦した攻撃機が平壌の飛行場を爆撃する。この戦闘で米海軍のF9Fパンサーが北朝鮮軍のYak9戦闘機を撃墜し、米海軍ジェット戦闘機の初陣を勝利で飾った。
米ソ全面戦争への危機感から地上軍の派遣を渋っていたトルーマン大統領であったが、マッカーサー元帥の現地視察空の報告を受けて遂に地上部隊の投入を決定し、6月30日には日本に駐留していた第24師団に出撃命令を下し、追って第25師団、第1騎兵師団(共に日本駐留部隊)にも出撃命令を下す。
ソウル周辺を征圧した北朝鮮軍は、不思議な事に進撃をストップさせ、首脳部はソウル政庁で戦傷祝賀会を2日にわたって行なうなど貴重な時間を無為に過ごしてしまう。これが、後に言われる事になる「謎の三日間」である。結局ソウルで3日、米軍投入決定の知らせを聞いて再度南進を行なう準備に2日と、計5日の貴重な時間を韓国軍に与えてしまい、この間に緒戦の奇襲攻撃の優位性を失い韓国軍に立ち直らせるきっかけを与え、かつ米軍投入までの時間さえも与えてしまう。やっと7月3日未明に南進を再開した北朝鮮軍は、7月5日早朝、投入された米地上軍と放火を交える。
しかし、不思議な民族だ。
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