李承晩

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李方子

投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2007/01/03 12:24 投稿番号: [145 / 2701]
悲劇の結婚と方子の決意

  二人の結婚は、はじめから悲劇を孕んだものであった。それは軍閥が決定したいわゆる政略結婚というばかりではない。実は、方子は皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の有力なお妃候補であった。しかし侍医から不妊症と診断され、お妃候補から引きずり落とされた。
  そういう中でも唯一の救いは、方子の決意が堅かったことであった。14歳で李王家に嫁ぐことが知らされた直後、彼女はまず髪型を変えた。髪を真ん中で分け、ぴたりと横にとき流した朝鮮式の髪型である。異国の王朝に嫁ぐ彼女の決意の現れであった。

長男晋の誕生と死

  方子の夫垠は感情を表すことがきわめて少なかった。日本留学に向かう出発直前、父の高宗が「日本に行ったら喜怒哀楽は顔に出さないように」と諭したからでもあろうが、人質という複雑な境遇がしむけた一つの「生きる知恵」であったのであろう。
  しかし、そんな誰もが感ずるごく一般の夫婦の幸福は、長くは続かなかった。恐れていた最悪の悲劇が彼ら二人を襲った。息子の死である。
  親子3人での朝鮮への里帰りのため、1922年4月23日3人は東京を出発した。結婚後の初めての里帰りであり、朝鮮王朝風の結婚式を祖国で上げることにもなっていた。長男の晋はまだ8ヵ月の赤ちゃんであり、離乳時期を迎えたばかりであった。気候風土の変化で病気にでもなったら大変である。二人は晋を日本に残しておきたかった。しかし、韓国側の「子供を連れてきてほしい」という強い要望を飲まざるをえなく、結局三人で里帰りすることになったのである。
  方子は後に、「8ヵ月の赤ん坊を連れていくということは本当に心苦しゅうございました。連れていくのは嫌だとは、どうしても申されない立場ですからね。本当に苦しんだことがございます」と胸の内を語っている。
  朝鮮式の結婚式がつつがなく執り行われ、帰国の日も近付きつつあったとき、それまで元気にしていた晋が突然息遣いが荒くなり、嘔吐を始めた。医師は急性消化不良と診断した。しかし、晋の容態は一向に回復しない。むしろ悪くなる一方であった。母の必死の介護や祈りの甲斐なく、5月11日ついに8ヵ月の赤ちゃんは亡くなってしまった。
  「なぜ、私を死なせてくれないのか」と言って、方子は冷たくなった子供の亡骸を抱いて、ただ泣くばかりであったという。当然、毒殺の噂が立った。「李王朝に日本人の血が入ることに拒んだ者の仕業ではないか」と。しかし、真相は闇の中である。真相はどうあれ、晋の死が毒殺と考えることが自然であるほどに両国の溝は深刻であったのである。

終戦後の困難

  終戦は、二人にとっては決して解放ではなかった。むしろ、さらなる困難が彼らを襲った。敗戦により、二人は王族(李王公家)の立場を剥脱され、一般の在日朝鮮人という立場に甘んじなければならなくなってしまった。二人とも、生れ付きの王族で生活力はまるでなかった。電車に乗ったことすらなかったのである。お金を持ったことすらなかった。まずお金の使い方から習わなければならなかったほどなのだ。
  その上、廃止された各公家には一時金が支給されたが、「軍人はその対象とせず」ということであったから、彼らには一時金も支給されなかった。垠は敗戦時、陸軍中将だったからである。日本軍の軍人であったにもかかわらず、垠が韓国人であるということで、軍人恩給も支払われることがなかった。たちまち生活は困窮し、李王邸(現在の赤坂プリンスホテル旧館)を手放さなければならなくなった。
  日毎、気力を失い、家に閉じこもりがちな垠は、祖国への帰国を願うが、それもかなわない。垠は何度も駐日代表部を通して、帰国を打診したが、李承晩大統領の返事は冷たいものであった。大統領は、もし垠が帰国したら、国民の同情が彼に集まり、自分が不利な立場になることを懸念したと言われている。戦前、垠は常日頃口癖にしていた言葉があった。「私はすでに朝鮮人ではない。といって日本人にもなれない。結局どちらでもない中途半端な人間なんだ」。この不安が、戦後まさに現実となって、垠と方子を苦しめた。日本からも韓国からも、二人は見捨てられ無国籍状態に陥ってしまったのである。

祖国の土

  韓国への帰国も叶わず、援助もない状態が続いた。彼らのこうした苦境を知って、手を差し伸べてくれた人々もいた。一人は昭和天皇。祖父に当たる明治天皇の代に、垠を連れてきたことに天皇は心を痛めていた。他に吉田茂首相をはじめ、朝鮮総督府勤務のOBの財界人などが、支援に名乗りを上げた。
  垠はこれらの支援に心から感謝した。しかし、同時に恥ずかしく思っていたという。自分の祖国の彼らへの冷遇が世に知れることになるからであった。


電波はあるけれど、悲劇は悲劇・・・
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