李承晩

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町の運命を変えたニダ 3

投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/02/02 06:47 投稿番号: [1058 / 2701]
■「自分の土地守る」中国志願兵も戦地へ

  朝鮮戦争では南北双方を支援した二十数万人の外国人兵士が命を落とした。なかでも中国の死者、行方不明者は約18万人に及ぶ。なぜ多くの兵を半島に出したのか。

  北京から平壌(ピョンヤン)行き夜行列車で14時間。中朝国境に近い遼寧省の丹東駅から車で5分ほどの鴨緑江(ヤールーチアン)に出ると、対岸の北朝鮮が間近に見えた。川の真ん中が国境線だ。川にかかる「中朝友誼(ゆうぎ)橋」をトラックが次々と渡って行った。中朝貿易の約7割が丹東を経由しているという。橋はもともと、中国東北部に「満州国」があった43年に日本がかけた。並行して川の上で途切れた橋があった。朝鮮戦争での爆撃で北朝鮮寄りの部分が折れるように崩れ、「鴨緑江断橋」と呼ばれる。この橋も、日本が大韓帝国を併合した翌年、朝鮮半島を南北に貫く鉄道と大陸の鉄道を結ぶために日本がつくったものだ。かつて安東と呼ばれた辺境の町、丹東は日本軍の大陸侵略の拠点だったのだ。

  市街地を見下ろす丘に立つ「抗米援朝記念館」を訪ねた。朝鮮戦争を伝える施設だ。館内には、さびた銃や手投げ弾、進軍ラッパ、撃墜した米軍機の破片が並んでいた。金日成が「朝鮮を米帝の植民地にはできない」と毛沢東(マオ・ツォートン)に支援を訴える手紙や、指導者の長男毛岸英(マオ・アンイン)ら朝鮮戦争で死んだ「英雄」の胸像もあった。

  趙業君(チャオ・イエチュン)館長は「丹東は朝鮮の戦場に近いだけでなく、繰り返し町も爆撃を受けて犠牲者が出た。戦争は中国を、丹東を守るための戦いだった」と話した。韓国軍と国連軍が38度線を越えて北進した50年10月、中国の「人民志願軍」は鴨緑江を渡り、丹東は出撃と軍需補給の拠点になった。博物館の立つ丘には司令施設があったという。

  参戦した元兵士に会った。84歳の孫景坤(スン・チンクン)さんは丹東生まれ。日本の敗戦で関東軍が去った後、中国共産党の土地改革で小作だった孫さんも土地を手にした。

  鴨緑江を渡って戦地に向かうときの思いをたずねると、孫さんはこう答えた。「妻にずっと会えないのはつらかったが、米軍がいつ攻めてきてもおかしくなかった。せっかく手にした土地を守るためにも必死に戦おうと思った」。戦場では米軍と白兵戦を繰り返し、21人を殺したという。同じ部隊120人のうち生き残ったのは5人だけ。孫さんは腰に爆弾の破片がささり、肩にも銃弾を受けたが、妻と再会できた。

  新中国は、参戦の前の年に成立したばかり。支配地域も全土に及ばず、国民党との内戦で荒廃した国土の再建も課題だった。何が参戦の決め手になったのか。冷戦期の中国外交を研究している牛軍(ニウチュン)・北京大教授はこう解説してくれた。

  「中国は50年秋に台湾に兵を出す準備をしていたが、朝鮮戦争に伴い、米軍は第7艦隊で台湾海峡を封鎖し、緊張が増した。また、金日成が戦争に負けたら東北部に亡命政権を受け入れるようソ連から暗に要請されていた。そうなれば、鴨緑江を挟んで米軍と直接向き合うことになる」

  大陸での「中米全面戦争」の危険性を避けたいとの思惑は、米国も同じだった。原爆の使用や台湾の国民党軍の派兵を主張したマッカーサーを、トルーマン大統領は解任。その3カ月後の51年7月には休戦交渉が始まった。朝鮮戦争で、中国は北朝鮮への、米国は韓国への影響力を増した。半島の運命が、大国の思惑を抜きにして考えられない構造は今も変わりはない。


4に続きます。
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