東京裁判における未提出資料(5
投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/04 18:03 投稿番号: [32831 / 60270]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1868
日本経済は1945年(昭和20年)の降伏に到る迄、如何なる全体主義的概念より見るも「統制」経済ではなかったのであります。
1930年のスムート・ホーレイ関税法案並に1932年のオタワ会議に始まり、日本は直接に西方諸強の制定実施せる法律の影響を蒙ることとなりました。日本政府の実施した取締規則中の或るものは諸外国の圧迫に対応して制定されたものであります。1例を挙げますと、絹織物、レーヨン、鮪缶詰、鉛筆、電球、其の他に関しまして、日本は諸外国におきまして、禁止的関税の規制を受けましたので、自発的に、量質具に割当制の実施と云う擬制を払うことによりまして、僅かに斯かる緩和をし得たのであります。此の結果は日本の輸出産業を割当制の基礎の上に置き、且亦公平なる輸出品割当制を生産者間に実施する為、政府の仲介が必要となって来た訳であります。1941年前少なくとも20年間と云うもの、日本はその人口に比例し、世界最多数の中小独立企業者を有しておりました。
従って必然的に如何なる時期におきましても、日本経済を全体主義的な戦に沿うて展開せしめることは不可能であります。政府は戦争の有効なる遂行の為、原料、生産及労働の調整に努めたのでありますが、その際にも、太平洋戦争のさ中におきましてすら、如何に多くの克服し難き問題に直面致しましたかを我々は立証するつもりであります。日本経済は1937年の支那事変に対しましても十分なる用意も準備もなく、且同年より1941年中期に亙ります間におきましても、太平洋で戦う経済的準備、乃至は世界若しくは其の極一部分の制覇を企図せることを示すような其の他の経済的準備をも何等有しなかったのであります。
1932年より1937年に至る間の統計が、日本の殆どあらゆる産業の生産増加を示していることは事実であります。
此の事実は、戦力に直接関係ある産業の或るものに就きましても、亦戦争目的に転換可能の或種産業に関しましても、又戦力に直接関係なき産業に就きましても同様に云えることであります。然しながら吾々と致しましては、書証及び承認の証言等によりまして、斯かる増産が主としては日本の民需経済に注ぎ込まれ、以て世界の主要国家の多くに比し通常の水準以下の生活を長年営んで参りました日本国民の生活及び経済状況を改善致しましたものでありますことを立証致します。斯かる増産が戦力培養の為に予め計画立案されたものであると主張するが如きは、全く真実を弄ぶものであります。
日本は他の世界各国と同様に現状のまま又は空虚の中に生きることを望まなかったのであります。他の進歩的な国々と同様に、日本の政府の首脳者も常に国民の生活水準の向上に努めてきましたが、そのために採られた方策の1つが外国貿易と日本の工業化に依るものでありました。1941年(昭和16年)に至る20年間に国民の生活水準及び民間消費の増加において日本が成し遂げましたような進歩は極めてつつましやかなものでありまして、1938(昭和13)年以前に所謂戦力確保のために民間消費が切り詰められましたことは1度もなかったのであります。1938(昭和13)年から1941(昭和16)年の中頃迄の間は、国際信用の情勢や、支那事変遂行に不可欠の物資を輸入するために不急不要の輸入品を削減する必要から、やむを得ず政府が限られた場合に干渉した以外は、平時の民間消費に政府が容喙することは殆どなかったのであります。
日本経済は1945年(昭和20年)の降伏に到る迄、如何なる全体主義的概念より見るも「統制」経済ではなかったのであります。
1930年のスムート・ホーレイ関税法案並に1932年のオタワ会議に始まり、日本は直接に西方諸強の制定実施せる法律の影響を蒙ることとなりました。日本政府の実施した取締規則中の或るものは諸外国の圧迫に対応して制定されたものであります。1例を挙げますと、絹織物、レーヨン、鮪缶詰、鉛筆、電球、其の他に関しまして、日本は諸外国におきまして、禁止的関税の規制を受けましたので、自発的に、量質具に割当制の実施と云う擬制を払うことによりまして、僅かに斯かる緩和をし得たのであります。此の結果は日本の輸出産業を割当制の基礎の上に置き、且亦公平なる輸出品割当制を生産者間に実施する為、政府の仲介が必要となって来た訳であります。1941年前少なくとも20年間と云うもの、日本はその人口に比例し、世界最多数の中小独立企業者を有しておりました。
従って必然的に如何なる時期におきましても、日本経済を全体主義的な戦に沿うて展開せしめることは不可能であります。政府は戦争の有効なる遂行の為、原料、生産及労働の調整に努めたのでありますが、その際にも、太平洋戦争のさ中におきましてすら、如何に多くの克服し難き問題に直面致しましたかを我々は立証するつもりであります。日本経済は1937年の支那事変に対しましても十分なる用意も準備もなく、且同年より1941年中期に亙ります間におきましても、太平洋で戦う経済的準備、乃至は世界若しくは其の極一部分の制覇を企図せることを示すような其の他の経済的準備をも何等有しなかったのであります。
1932年より1937年に至る間の統計が、日本の殆どあらゆる産業の生産増加を示していることは事実であります。
此の事実は、戦力に直接関係ある産業の或るものに就きましても、亦戦争目的に転換可能の或種産業に関しましても、又戦力に直接関係なき産業に就きましても同様に云えることであります。然しながら吾々と致しましては、書証及び承認の証言等によりまして、斯かる増産が主としては日本の民需経済に注ぎ込まれ、以て世界の主要国家の多くに比し通常の水準以下の生活を長年営んで参りました日本国民の生活及び経済状況を改善致しましたものでありますことを立証致します。斯かる増産が戦力培養の為に予め計画立案されたものであると主張するが如きは、全く真実を弄ぶものであります。
日本は他の世界各国と同様に現状のまま又は空虚の中に生きることを望まなかったのであります。他の進歩的な国々と同様に、日本の政府の首脳者も常に国民の生活水準の向上に努めてきましたが、そのために採られた方策の1つが外国貿易と日本の工業化に依るものでありました。1941年(昭和16年)に至る20年間に国民の生活水準及び民間消費の増加において日本が成し遂げましたような進歩は極めてつつましやかなものでありまして、1938(昭和13)年以前に所謂戦力確保のために民間消費が切り詰められましたことは1度もなかったのであります。1938(昭和13)年から1941(昭和16)年の中頃迄の間は、国際信用の情勢や、支那事変遂行に不可欠の物資を輸入するために不急不要の輸入品を削減する必要から、やむを得ず政府が限られた場合に干渉した以外は、平時の民間消費に政府が容喙することは殆どなかったのであります。
これは メッセージ 32830 (u26699jp さん)への返信です.