東京裁判における未提出資料(6
投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/04 18:05 投稿番号: [32832 / 60270]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1870
1911(明治44)年以来、日米両国間に結ばれて来ました通商航海條約は1939(昭和14)年、米国側の廃棄するところとなり、1940(昭和15)年1月を以て失効することとなりました。対日物資輸出禁止は米国の政策の1つとして採用されました。月を経る毎に益々多くの品目が此のリストに附加されました。かかる差別待遇に対して日本側からは厳重な抗議がなされました。米国軍部と国務省官辺とは日本に対する措置についてしばしば意見を異にしながらも協力して事に当りました。1941(昭和16)年7月26日の最後的対日経済制裁を米国大統領が真剣に検討していた時、彼は斯かる措置の当否について軍部首脳の意見を求めました。之に対する軍部の答申は断然「対日貿易は此際禁止すべからず、若し禁輸を行えば、恐らく極めて近い将来において日本はマレー及び蘭領東印度諸島を攻撃するに至り、而して恐らく米国を近い将来に太平洋戦争の渦中に投ずることとなるであろうから」というのでありました。「現実主義的権威筋が挙って」、日本に対し「徹底的経済制裁を加える」ことは「重大なる戦争の危険を意味」することを主張したのみならず、忌憚なき日本側の米国国務省官辺に対する批判も亦、斯かる行動は「日本をして早晩ゴム其の他の物資確保の為め馬来半島及び蘭印に南下する以外に途なき」状態に立ち至らしめるであろうというのでありました。斯かる日本の反応は、大統領の、米国は飽く迄英国を援助するであろうという明白な声明と共に、戦争の実際的発端は果たして真珠湾攻撃にありや否やの疑問に対して明確なる返答を与えているのであります。1941(昭和16)年7月26日、遂に凍結令が発せられるや英帝国及び蘭領印度も亦時を逸せず之に倣いました。彼等は条約上の義務に反して即時同様の手段を採ったのであります。是等の凍結令は直ちに日本に対し怖るべき衝撃を与えました。かかる状態が或る程度迄継続するならば日本の経済は不具状態に陥ることは明らかでありました。此等の手段は生産能力及び原料の徹底的な消耗により日本が支那において屈服してしまわねばならない様に目論まれたものであります。日本に致命的打撃を与える主要物資の1は石油であります。之無くしては日本の国内経済も、総ての国家的安全性も圧殺されるのでありました。かつて日本が蘭印から充分の石油を得ようとした平和的企図は失敗しました。日本から観れば此等の輸出禁止や凍結令は日本の生存権を拒否するに等しいものでありました。
ロシアの5ヶ年計画成功の報道は日本にもう1つの脅威を与えました。然し日本経済の国際的孤立を語るだけでは未だ情勢の説明には不充分であります。まだ語らなければならなぬものがあります。即ち之と同時に列強の軍事当局も所謂「オレンジ」に対し戦争を目論んでいたのであります。「オレンジ」とは日本を指す彼等の常套語でありました。
対日作戦計画は何れも時と情勢の推移により変化する2種の哲学を反映していたということができましょう。第1種の作戦計画は、列強の軍事当局者が斯かる計画の実現は尚前途著しく遼遠と思いながらも彼等の職務の機械的遂行の為に行ったものであります。
1911(明治44)年以来、日米両国間に結ばれて来ました通商航海條約は1939(昭和14)年、米国側の廃棄するところとなり、1940(昭和15)年1月を以て失効することとなりました。対日物資輸出禁止は米国の政策の1つとして採用されました。月を経る毎に益々多くの品目が此のリストに附加されました。かかる差別待遇に対して日本側からは厳重な抗議がなされました。米国軍部と国務省官辺とは日本に対する措置についてしばしば意見を異にしながらも協力して事に当りました。1941(昭和16)年7月26日の最後的対日経済制裁を米国大統領が真剣に検討していた時、彼は斯かる措置の当否について軍部首脳の意見を求めました。之に対する軍部の答申は断然「対日貿易は此際禁止すべからず、若し禁輸を行えば、恐らく極めて近い将来において日本はマレー及び蘭領東印度諸島を攻撃するに至り、而して恐らく米国を近い将来に太平洋戦争の渦中に投ずることとなるであろうから」というのでありました。「現実主義的権威筋が挙って」、日本に対し「徹底的経済制裁を加える」ことは「重大なる戦争の危険を意味」することを主張したのみならず、忌憚なき日本側の米国国務省官辺に対する批判も亦、斯かる行動は「日本をして早晩ゴム其の他の物資確保の為め馬来半島及び蘭印に南下する以外に途なき」状態に立ち至らしめるであろうというのでありました。斯かる日本の反応は、大統領の、米国は飽く迄英国を援助するであろうという明白な声明と共に、戦争の実際的発端は果たして真珠湾攻撃にありや否やの疑問に対して明確なる返答を与えているのであります。1941(昭和16)年7月26日、遂に凍結令が発せられるや英帝国及び蘭領印度も亦時を逸せず之に倣いました。彼等は条約上の義務に反して即時同様の手段を採ったのであります。是等の凍結令は直ちに日本に対し怖るべき衝撃を与えました。かかる状態が或る程度迄継続するならば日本の経済は不具状態に陥ることは明らかでありました。此等の手段は生産能力及び原料の徹底的な消耗により日本が支那において屈服してしまわねばならない様に目論まれたものであります。日本に致命的打撃を与える主要物資の1は石油であります。之無くしては日本の国内経済も、総ての国家的安全性も圧殺されるのでありました。かつて日本が蘭印から充分の石油を得ようとした平和的企図は失敗しました。日本から観れば此等の輸出禁止や凍結令は日本の生存権を拒否するに等しいものでありました。
ロシアの5ヶ年計画成功の報道は日本にもう1つの脅威を与えました。然し日本経済の国際的孤立を語るだけでは未だ情勢の説明には不充分であります。まだ語らなければならなぬものがあります。即ち之と同時に列強の軍事当局も所謂「オレンジ」に対し戦争を目論んでいたのであります。「オレンジ」とは日本を指す彼等の常套語でありました。
対日作戦計画は何れも時と情勢の推移により変化する2種の哲学を反映していたということができましょう。第1種の作戦計画は、列強の軍事当局者が斯かる計画の実現は尚前途著しく遼遠と思いながらも彼等の職務の機械的遂行の為に行ったものであります。
これは メッセージ 32831 (u26699jp さん)への返信です.