日韓歴史論争

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三田渡への道

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/19 16:01 投稿番号: [931 / 6952]
明王朝が反明の旗を掲げた建州女真討伐のため、朝鮮に出兵を要請してきた時、光海君は断りきれなかった。国境を接する建州女真は日の出の勢いで、これと対立するのは朝鮮にとってリスクが大きい。しかし、明はかって援朝軍を送り、日本軍を追い落としてくれた恩がある。光海君は都元帥・姜弘立に1万の兵を授け、満州に派遣するが、適当な時期に降伏しろと言い含めた。1618年、明は10万の兵力を動員して後金(建州女真)の都・ヘテアラ(現・遼寧省新賓県)をを攻撃したが、サルホの戦いでヌルハチの指揮する6万の後金軍に大敗した。劉挺軍の後尾に付いていた姜弘立の朝鮮軍は後金軍の攻撃を受けると、直ちに投降した。サルホの敗戦で明は守勢に立ち、ヌルハチの後金軍は遼東平原に進出、遼陽と瀋陽を陥落させ、都を移す。朝鮮の光海君はこのような情勢のなかで、後金の攻撃を避けるため、明と後金どっちつかずの外交政策を続けた。ソウルでは事大を掲げる親明派が台頭し、光海君の対外政策を生ぬるいとして、1623年光海君を廃位するクデターを敢行した。これによって親明派の仁祖が即位したため、朝鮮史上「仁祖反正」と呼ばれる。これが仁祖反正を描いた韓国映画・清風明月のMVである。

http://player.bugsmusic.co.kr/mvplayer/view.asp?code=ants&video=310720066,&server=218.153.5.202&type=&music_idx=kor0O215843

政権を握った仁祖は明将・毛文龍の朝鮮国内駐留を認め、毛文龍の明軍は背後から後金を脅かした。この間、後金では一代の英雄・ヌルハチが遼西の広寧城攻撃の際受けた傷が元で死去し、その子ホンタイジが汗(ハン)に即位、さらに国号を清と改め、皇帝の位に就いていた。ホンタイジはたびたび朝鮮に明軍の撤兵を求めてきたが、親明派の仁祖がこれを拒絶、清と朝鮮の関係は緊張した。ホンタイジは1627年、阿敏を将とする3万の清軍を朝鮮に派遣した。これが丁卯胡乱である。毛文龍は皮島に逃げ込んだ。阿敏は姜弘立を道案内として朝鮮に侵入、平壌を陥落させ、黄海道まで攻め込んできた。仁祖の朝鮮宮廷は江華島に避難、さらにソウル陥落を恐れて清を兄と仰ぐ条件で清軍と講和した。しかし、清軍が撤退すると、相変わらず親明政策を続け、毛文龍没後も明軍の皮島駐留を認めていた。これに業を煮やしたホンタイジは清と朝鮮の関係を兄弟の関係から君臣の関係に変更するよう求めてきた。仁祖がこれを拒絶すると、ホンタイジは1636年自ら朝鮮討伐の軍を起こす。これが丙子胡乱である。ホンタイジの親征軍はソウルを占領、仁祖は南漢山城に立て籠もる。しかし江華島に逃れた王妃、王子らが清軍に捕まると、もはやこれまでと観念し、漢江南岸の三田渡でホンタイジに投降したものである。
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