まだあるアンタッチャブルの世界。
投稿者: toseinin_isaq 投稿日時: 2010/08/20 23:10 投稿番号: [6129 / 6952]
3世紀半ば。馬韓諸国と辰韓諸国には王はおらず各国に渠帥がいたとあります。馬韓をたばねた王がいた雰囲気もありません。(馬韓の月支国の渠帥が、無償貸しの辰韓を管理する辰王を務めています)。そのせいか統治機構が未発達で、バラバラで十分にいきわたっていなかったと述べています。
馬韓などは「帯方郡から近いところの者はいくらか礼儀をわきまえているが、遠くなると奴婢か犯罪者集団のようだ」と述べています。高句麗などは「好んで略奪を働く」ですよ。
一方、弁辰(弁韓)の12国には、それぞれ王がいたと書いています王がいた弁韓12国は「法俗特厳峻」で、かなり統治が徹底していたようです。たぶん、倭人の息のかかった地域だったからではないでしょうか。三韓それぞれに、国情も体制もかなり違っていたことがうかがえます。
倭国のほうは、「俗は淫らならず、盗窃せず争訟少なし」です。官吏を派遣した厳粛な法制国家であり、庶民の生活モラルも他の東アジア諸国とは段違いです。戦争や洪水のたびに、たくさんの移民がやってきたことでしょう。新天地へ向かう人間は、必ず穀物を持参します。稲作は煮炊きする必要から土器文化も発展します。考古学のいう弥生の人口数値など遥かに超えた人口がいたものと私はみています。(人間は米だけ食べて生きていたわけではありません。稲作というものは、畑作・漁業とのバランスが国力・民力となるのですからね。そこまで俯瞰しないと正確なことは分かりません)。
>朝廷側は熊襲、隼人を制圧するために
ほかにも熊鷹・土蜘蛛などと呼ばれた、似てはいるが少しずつ異なる色んな民族がいたようです。むろん、河川民族や山岳民族など、まさに雲南省の少数民族のあり方の「縮図」があったはずです。
それから。一つの部族でも、体制におもねるもの・土地を捨てて移動するもの・徹底的に反抗するもの、色々です。隼人とて、意思統一の徹底した単一部族だったわけではありません。しかも、自分たちが服属してきた系統とは異なる者が王になれば、従わないのが隼人であり熊襲の頑固さです。
継体天皇が(女王を立てるほどもなく候補にあがった)傍流だったことで、磐井が反抗したと考えることも必要でしょう。磐井とて「〜の君(天皇家から分かれた地方豪族の呼称)」を名乗っているし、彼の墓は装飾古墳です。装飾古墳そのものも中国で前漢代からみられるし、装飾古墳の図柄も長江流域の新石器時代に特徴的にみられる文様です。
…………この部分もアンタッチャブルの世界でしょうけど。
>長江文明が、縄文にも通じるものなのですね。
縄文倭人も弥生倭人も、多くは長江流域の少数民族です。確かな証拠とともに確信をもって断言できます。
>殷の文化も日本に影響していそうという話も聞いたことがありますが、
殷以前の夏王朝の時代にはすでに長江文化を取り込んでいます。禹がつくった法統の証したる九鼎も、長江流域の文様文化で「とうてつ」が描かれています。
日本の稲作文化も、大陸北上で半島経由よりも、長江河口からストレートにきているはずですし、半島南部の「九州と類似する文化」も、九州から渡ったものと、長江河口から五島列島をそれて半島南部に漂着したものがあると思います。その証拠に、新石器時代の黄河文明を代表する三足土器と鼎が、例外的少数を除けば半島南部にも列島にも伝わっていません。(遼寧文化とされる青銅器・松菊里型住居もやってきてはいます。楽浪土器などもきてはいます。だが、弥生後期のそれと共存しているし絶対数的には少数派だし、分布エリアも九州北部中心で限定的です。これらとて、倭人の船が運んだのでしょう)。
一方、長江流域の新石器時代の土器文化・文様文化は東北だけではなく北海道にまで到達しています。大事なことは、その土地に根付いて、その土地の文化となっていることです。
これまではどの研究者も論者も、九州説者ですら筑肥山地から南へは意識的踏み込もうとしなかった。倭人伝の記録を無視してまで、九州北部だけで古代史をかたづけようとしてきたのです。しかも、8世紀に日本書紀を書いた百済からの帰化漢人たちは、倭人伝をみて邪馬台国が日向にあったと読んだらしい。これが、「何でも日向スタート」になっている主因です。
ともかく、従来の「何でも半島由来」という、漠然とした観念論は見直す必要があります。今回は、これまでとさせていただきます。
馬韓などは「帯方郡から近いところの者はいくらか礼儀をわきまえているが、遠くなると奴婢か犯罪者集団のようだ」と述べています。高句麗などは「好んで略奪を働く」ですよ。
一方、弁辰(弁韓)の12国には、それぞれ王がいたと書いています王がいた弁韓12国は「法俗特厳峻」で、かなり統治が徹底していたようです。たぶん、倭人の息のかかった地域だったからではないでしょうか。三韓それぞれに、国情も体制もかなり違っていたことがうかがえます。
倭国のほうは、「俗は淫らならず、盗窃せず争訟少なし」です。官吏を派遣した厳粛な法制国家であり、庶民の生活モラルも他の東アジア諸国とは段違いです。戦争や洪水のたびに、たくさんの移民がやってきたことでしょう。新天地へ向かう人間は、必ず穀物を持参します。稲作は煮炊きする必要から土器文化も発展します。考古学のいう弥生の人口数値など遥かに超えた人口がいたものと私はみています。(人間は米だけ食べて生きていたわけではありません。稲作というものは、畑作・漁業とのバランスが国力・民力となるのですからね。そこまで俯瞰しないと正確なことは分かりません)。
>朝廷側は熊襲、隼人を制圧するために
ほかにも熊鷹・土蜘蛛などと呼ばれた、似てはいるが少しずつ異なる色んな民族がいたようです。むろん、河川民族や山岳民族など、まさに雲南省の少数民族のあり方の「縮図」があったはずです。
それから。一つの部族でも、体制におもねるもの・土地を捨てて移動するもの・徹底的に反抗するもの、色々です。隼人とて、意思統一の徹底した単一部族だったわけではありません。しかも、自分たちが服属してきた系統とは異なる者が王になれば、従わないのが隼人であり熊襲の頑固さです。
継体天皇が(女王を立てるほどもなく候補にあがった)傍流だったことで、磐井が反抗したと考えることも必要でしょう。磐井とて「〜の君(天皇家から分かれた地方豪族の呼称)」を名乗っているし、彼の墓は装飾古墳です。装飾古墳そのものも中国で前漢代からみられるし、装飾古墳の図柄も長江流域の新石器時代に特徴的にみられる文様です。
…………この部分もアンタッチャブルの世界でしょうけど。
>長江文明が、縄文にも通じるものなのですね。
縄文倭人も弥生倭人も、多くは長江流域の少数民族です。確かな証拠とともに確信をもって断言できます。
>殷の文化も日本に影響していそうという話も聞いたことがありますが、
殷以前の夏王朝の時代にはすでに長江文化を取り込んでいます。禹がつくった法統の証したる九鼎も、長江流域の文様文化で「とうてつ」が描かれています。
日本の稲作文化も、大陸北上で半島経由よりも、長江河口からストレートにきているはずですし、半島南部の「九州と類似する文化」も、九州から渡ったものと、長江河口から五島列島をそれて半島南部に漂着したものがあると思います。その証拠に、新石器時代の黄河文明を代表する三足土器と鼎が、例外的少数を除けば半島南部にも列島にも伝わっていません。(遼寧文化とされる青銅器・松菊里型住居もやってきてはいます。楽浪土器などもきてはいます。だが、弥生後期のそれと共存しているし絶対数的には少数派だし、分布エリアも九州北部中心で限定的です。これらとて、倭人の船が運んだのでしょう)。
一方、長江流域の新石器時代の土器文化・文様文化は東北だけではなく北海道にまで到達しています。大事なことは、その土地に根付いて、その土地の文化となっていることです。
これまではどの研究者も論者も、九州説者ですら筑肥山地から南へは意識的踏み込もうとしなかった。倭人伝の記録を無視してまで、九州北部だけで古代史をかたづけようとしてきたのです。しかも、8世紀に日本書紀を書いた百済からの帰化漢人たちは、倭人伝をみて邪馬台国が日向にあったと読んだらしい。これが、「何でも日向スタート」になっている主因です。
ともかく、従来の「何でも半島由来」という、漠然とした観念論は見直す必要があります。今回は、これまでとさせていただきます。
これは メッセージ 6127 (satoruba03 さん)への返信です.
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