日韓歴史論争

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Re: 日韓歴史論争

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/12/27 21:05 投稿番号: [3516 / 6952]
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天智十年(671)六月四日

  百済三部の使者要請の軍事について宣言する。
  日本と友好関係にあった百済(くだら)は斉明六年(660)、唐と新羅(しらぎ)の連合軍の攻撃を受けて滅亡した。そして鬼室福信らによる再興百済も天智二年(663)に救援の日本軍が白村江(はくすきのえ)の戦いで壊滅したため、百済はついに完全に滅亡してしまう。
  そして旧百済領域は唐による直轄支配を受けることになった。唐の百済駐留軍は翌天智三年に日本に遣使し、様子を窺うなど、緊張の中にも小康状態が続いた。しかし、天智七年には今度は高句麗(こうくり)が唐・新羅連合軍の攻撃に内紛が重なってとうとう滅亡してしまう。そしてこれを機に新羅はその野心をむき出しにする。旧百済領域の併呑を図ったのである。次第に旧百済領域(唐の熊津都督府の支配領域)に侵攻していく新羅に対し当然唐は怒ったがそれでも新羅は謝罪使を派遣する一方、侵攻はやめなかった。この年一月には熊津(くまなれ、もと百済の首都で唐の都督府の所在地)の南で激戦が行われ、六月からはいよいよ本格的に唐の救援軍を相手に戦闘を繰り返すに至った。
  一方、百済鎮将劉仁願(りゅうじんがん)はこの年一月に日本に使者を派遣した。恐らくその時、百済の五部(地方区分、上・前・中・下・後の各部)のうち三部の代表をも派遣、窮状を訴えて援軍を乞うたのであろう。逆に言えば残る二部は既に新羅に併合されていたのであろう。
  この日、天智天皇はそれに対する回答を宣した。しかし、その内容については伝えられていない。将来の出兵を承諾した可能性もあるがこの年九月からの天皇の不予と十二月の崩御、翌年の壬申の乱で日本は援軍どころではなくなる。
(日本書紀)
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