閑山島海戦(1)
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/12/12 17:52 投稿番号: [3474 / 6952]
韓国人もこういう風に分析すればいいのですが・・・
・・・・・・・
閑山島大捷はどれぐらい大勝利か? 【世界四大海戦?】
豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰倭乱)に於ける李舜臣の大勝利として韓国人が世界四大海戦の一つだと主張する「閑山島海戦」は果たしてどれぐらいの大勝利だったのでしょうか?
●a.閑山島海戦の概要
閑山島海戦は、文禄の役における海戦の一つ。
文禄元年(1592年)7月7日に閑山島と巨済島の間の海峡で単独出撃をした脇坂安治の水軍が朝鮮水軍の誘引戦術により撃破された。
●b.閑山島大捷の作り方
まず初めに李舜臣を韓国最大の英雄であると絶対的に盲信します。
そして李舜臣賛美の為の韓国歴史司祭の言葉を決して疑ったり批判しません。
1.李舜臣の戦果報告、倭船の発見数を大船36隻+中船24隻+小船13=計73隻、撃破・拿捕を大船35隻+中船17隻+小船7隻=計59隻としています。(見乃梁破倭状)
3.大船を安宅船、中船を関船、小船を小早船と置換して解釈します。
4.魔法係数の安宅船=200人、関船=100人、小早船=40人を撃破・拿捕に代入し、全損兵員と解釈します。
5.結果、閑山島海戦に於ける脇坂水軍の損失兵員は8980人(=200x35+100x17+40x7)の莫大なダメージとなります。
6.はい、「閑山島世界四大海戦」できあがり。そして「日本軍の水陸並進作戦を挫折させた」などと主張すると更に誇らしいでしょう。
●c.脇坂安治の動向(九鬼嘉隆,加藤嘉明)
1592年所領、脇坂:淡路洲本3.0万石の大名、階位:従五位下中務少輔。(九鬼:志摩鳥羽3.0万石, 加藤:淡路志知1.5万石)
01.1590年02月 (参考)小田原役、脇坂1500人(九鬼1500人,加藤600人)動員定数(「秀吉朱印状・天正十七年(1589)十二月五日」船手人数)
02.1592年03月 脇坂1500人(九鬼1500人,加藤750人)動員定数(「天正記」ちやうせん国御進発の人数つもり)
03.1592年04月 文禄の役 開戦、脇坂は対馬(九鬼は対馬、加藤は壱岐)にて輸送管理を担当する。
04.1592年06月 5月中旬より脇坂は内陸配置となり、漢城郊外の龍仁戦闘では来襲した李洸将軍他の朝鮮軍5万以上を逆襲・潰走させる。
05.1592年07月●釜山にて脇坂は6月14日より水軍を編成。九鬼・加藤の準備を待たずに単独出撃を行い、開山島海戦で敗北する。
06.1592年08月 海岸防御戦術を命令され、以降朝鮮水軍を撃退する。
07.1593年03月 脇坂1000人(九鬼1000人,加藤500人)晋州城攻撃計画(当初)動員定数(「秀吉朱印状・文禄二年(1593)三月十日」覚)
08.1593年05月 脇坂 900人(九鬼834人,加藤314人)晋州城攻撃作戦、海岸配置兵力及び築城動員定数。(「秀吉朱印状・文禄二年(1593)五月二十日」覚、同 朝鮮国御仕置の城の覚)
09.1595年01月 脇坂1500人(九鬼1650人,加藤850人)再出陣計画 動員定数(「秀吉朱印状・文禄五年(1596)正月十五日」高麗国動御人数帳覚)
10.1597年02月 脇坂1200人(加藤2400人)慶長の役 動員定数(「秀吉朱印状・慶長二年(1597)二月二十一日」陣立書)
11.1597年08月 脇坂1200人(加藤2800人)南原城攻撃兵力(「南原城図」)
12.1600年09月 脇坂 990人、参考:関ヶ原の合戦、動員兵力(「参謀本部 関ヶ原役」)
●d.朝鮮水軍の規模
朝鮮艦隊は李舜臣24隻(板屋船21,亀船3)、元均7隻、李億祺25隻の約50隻と言われている。
1595.03.04の朝鮮王朝への実数報告等の戦船数から推測すると非戦闘員も含めて約7000人程度の規模の兵力となる。
また、朝鮮艦隊の兵力を別の視点から見て、板屋船の定員を150人から200人と見積もっても7000人から10000人超の兵力が動員されていたと推測される。
(続く)
・・・・・・・
閑山島大捷はどれぐらい大勝利か? 【世界四大海戦?】
豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰倭乱)に於ける李舜臣の大勝利として韓国人が世界四大海戦の一つだと主張する「閑山島海戦」は果たしてどれぐらいの大勝利だったのでしょうか?
●a.閑山島海戦の概要
閑山島海戦は、文禄の役における海戦の一つ。
文禄元年(1592年)7月7日に閑山島と巨済島の間の海峡で単独出撃をした脇坂安治の水軍が朝鮮水軍の誘引戦術により撃破された。
●b.閑山島大捷の作り方
まず初めに李舜臣を韓国最大の英雄であると絶対的に盲信します。
そして李舜臣賛美の為の韓国歴史司祭の言葉を決して疑ったり批判しません。
1.李舜臣の戦果報告、倭船の発見数を大船36隻+中船24隻+小船13=計73隻、撃破・拿捕を大船35隻+中船17隻+小船7隻=計59隻としています。(見乃梁破倭状)
3.大船を安宅船、中船を関船、小船を小早船と置換して解釈します。
4.魔法係数の安宅船=200人、関船=100人、小早船=40人を撃破・拿捕に代入し、全損兵員と解釈します。
5.結果、閑山島海戦に於ける脇坂水軍の損失兵員は8980人(=200x35+100x17+40x7)の莫大なダメージとなります。
6.はい、「閑山島世界四大海戦」できあがり。そして「日本軍の水陸並進作戦を挫折させた」などと主張すると更に誇らしいでしょう。
●c.脇坂安治の動向(九鬼嘉隆,加藤嘉明)
1592年所領、脇坂:淡路洲本3.0万石の大名、階位:従五位下中務少輔。(九鬼:志摩鳥羽3.0万石, 加藤:淡路志知1.5万石)
01.1590年02月 (参考)小田原役、脇坂1500人(九鬼1500人,加藤600人)動員定数(「秀吉朱印状・天正十七年(1589)十二月五日」船手人数)
02.1592年03月 脇坂1500人(九鬼1500人,加藤750人)動員定数(「天正記」ちやうせん国御進発の人数つもり)
03.1592年04月 文禄の役 開戦、脇坂は対馬(九鬼は対馬、加藤は壱岐)にて輸送管理を担当する。
04.1592年06月 5月中旬より脇坂は内陸配置となり、漢城郊外の龍仁戦闘では来襲した李洸将軍他の朝鮮軍5万以上を逆襲・潰走させる。
05.1592年07月●釜山にて脇坂は6月14日より水軍を編成。九鬼・加藤の準備を待たずに単独出撃を行い、開山島海戦で敗北する。
06.1592年08月 海岸防御戦術を命令され、以降朝鮮水軍を撃退する。
07.1593年03月 脇坂1000人(九鬼1000人,加藤500人)晋州城攻撃計画(当初)動員定数(「秀吉朱印状・文禄二年(1593)三月十日」覚)
08.1593年05月 脇坂 900人(九鬼834人,加藤314人)晋州城攻撃作戦、海岸配置兵力及び築城動員定数。(「秀吉朱印状・文禄二年(1593)五月二十日」覚、同 朝鮮国御仕置の城の覚)
09.1595年01月 脇坂1500人(九鬼1650人,加藤850人)再出陣計画 動員定数(「秀吉朱印状・文禄五年(1596)正月十五日」高麗国動御人数帳覚)
10.1597年02月 脇坂1200人(加藤2400人)慶長の役 動員定数(「秀吉朱印状・慶長二年(1597)二月二十一日」陣立書)
11.1597年08月 脇坂1200人(加藤2800人)南原城攻撃兵力(「南原城図」)
12.1600年09月 脇坂 990人、参考:関ヶ原の合戦、動員兵力(「参謀本部 関ヶ原役」)
●d.朝鮮水軍の規模
朝鮮艦隊は李舜臣24隻(板屋船21,亀船3)、元均7隻、李億祺25隻の約50隻と言われている。
1595.03.04の朝鮮王朝への実数報告等の戦船数から推測すると非戦闘員も含めて約7000人程度の規模の兵力となる。
また、朝鮮艦隊の兵力を別の視点から見て、板屋船の定員を150人から200人と見積もっても7000人から10000人超の兵力が動員されていたと推測される。
(続く)
これは メッセージ 1 (ryuckel さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/ffc4znrbbkoc0ah_1/3474.html