Re: 明成皇后の殺害 ②
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/06/05 19:21 投稿番号: [2843 / 6952]
「韓国・堕落の2000年史」崔基鎬著より
大院君を清に売った閔妃の謀略
日本の愚かな女性作家が、閔妃に同情的な本を書いた事があるが、閔妃は義父に背恩した上に、民衆を塗炭の苦しみに遇わせ、国費を浪費して国を滅ぼしたオゾマシイ女である。この様な韓国史に対する無知が、却って日韓関係を歪めて来た事を知る可きである。
大院君は賭けに勝ち、7年振りに権力を握ったかに見えた。
しかし、閔妃の権謀術数には敵わず、閔妃が清に訴え出た為に、大院君は清によって拘束され、天津に拉致された。
李氏朝鮮は創建された時から独立性が無く、歴代の王と王族は中国皇帝の家臣達の支配下に在った。李鴻章の腹心である袁世凱の命令に対して、高宗が一言の異議も挟む事無く、実父が強制連行されるのを認めた事は、清の朝鮮に対する宗主権と冊封秩序が、些かも揺らいで居なかった事を示して居る。
ロシア公使館のなかで政務を執った国王
李朝は信義が全く無かった。その為に国際的な信頼を得る事も、全く出来なかった。高宗は、実父の大院君と妃の閔妃との間で激しい闘争が繰り広げられている間も、傍観を続けて、多数の犠牲を出した。
閔妃の政策も、ある時は清国に接近し、ある時は日本に擦り寄り、親清かと思えば、親日に変わり、日本を捨てると、ロシアと結んだ。庶民の生活を思い遣る事が全く無かったのは、李朝の支配階級の通弊で在ったとしても、高宗の実父であり、自身の恩人であった大院君を追放し、清国の袁世凱を唆して逮捕させるなど、智謀家では在ったが、その行いは倫理に大きく悖ったものだった。忘恩背徳の生涯であった。
高宗も、閔妃も、大院君も、ただ権力を維持する為に、その時々、力がある外国と結んで利用し、政治を弄んだ。この様な放逸な政治を行なった事から、1894年に東学農民の動乱が起きると、その乱の鎮定を清に委ねると言う愚行を犯し、日清戦争を誘発させた。しかし、高宗も廷臣達も何らの責任も感じなかった。
日清戦争の翌年の1896年2月11日の暁、高宗王と王世子は極秘の内に、宮城から脱出してロシア公使館に居所を移した。これを「俄館播遷」というが、朝鮮の悲劇は、このように一国の主権者である君主が、自ら王宮を脱すると言う怯弱な体タラクで在った事である。
更には、ロシア公使館に入ると、即座に警務官、安桓を呼びつけ、全然罪の無い金弘集総理大臣、鄭秉夏農相工部大臣、兪吉濬内務大臣、趙義淵、張博らの5大臣を、逆賊として捕殺する様命じた。
この様な理不尽な命令を伝え聞いた金弘集内閣は総辞職し、金は「私がこの国の内閣総理大臣として、全力を尽くした上で死を賜う事も天命である」として、従容として警官と群集によって惨殺された。鄭秉夏大臣も斬殺され、その屍体も鐘路に放置されたまま、群衆の投石を受け、数日間に亘って風雨に晒された。
正当な理由も無く、裁判も無く行なわれたこの暴挙に対し、ロシア公使も高宗に抗議した程だった。
呪われた国の悲しい終焉
そして李氏朝鮮は、1910年、高宗の子の純宗の代に滅亡した。純宗は、李成桂から数えて27代目だった。
李朝は倒れるべくして、倒れた。李氏朝鮮は儒教の朱子学を国教として定めながら、美辞麗句を弄ぶ裏で、私利私欲に駆られた党派抗争に耽って、汚れ切って居た。オゾマシイ階級制度によって、民衆を縦(ほしいまま)に苦しめて、収奪した。李氏朝鮮は今日の北朝鮮と全く変らず、人民には餓死するか、公開処刑によって死ぬか、強制収用所に入る自由しか無かった。
李朝が5世紀にも亘って韓族に君臨した為に、韓族の精神を歪めて仕舞った。「小中華」である事を誇って、呪われた国を創って仕舞った。
隣国の日本と何と大きく違って居た事だろう。日本は19世紀後半に西洋による脅威に直面すると、それを撥ね返すだけ強い力を、徳川期を通じて蓄えて居た。ところが、李氏朝鮮は骨の髄まで腐り切って居た。そこで人民の解放は、韓日併合という他力本願のものと、成ら非るを得なかったのである。
大院君を清に売った閔妃の謀略
日本の愚かな女性作家が、閔妃に同情的な本を書いた事があるが、閔妃は義父に背恩した上に、民衆を塗炭の苦しみに遇わせ、国費を浪費して国を滅ぼしたオゾマシイ女である。この様な韓国史に対する無知が、却って日韓関係を歪めて来た事を知る可きである。
大院君は賭けに勝ち、7年振りに権力を握ったかに見えた。
しかし、閔妃の権謀術数には敵わず、閔妃が清に訴え出た為に、大院君は清によって拘束され、天津に拉致された。
李氏朝鮮は創建された時から独立性が無く、歴代の王と王族は中国皇帝の家臣達の支配下に在った。李鴻章の腹心である袁世凱の命令に対して、高宗が一言の異議も挟む事無く、実父が強制連行されるのを認めた事は、清の朝鮮に対する宗主権と冊封秩序が、些かも揺らいで居なかった事を示して居る。
ロシア公使館のなかで政務を執った国王
李朝は信義が全く無かった。その為に国際的な信頼を得る事も、全く出来なかった。高宗は、実父の大院君と妃の閔妃との間で激しい闘争が繰り広げられている間も、傍観を続けて、多数の犠牲を出した。
閔妃の政策も、ある時は清国に接近し、ある時は日本に擦り寄り、親清かと思えば、親日に変わり、日本を捨てると、ロシアと結んだ。庶民の生活を思い遣る事が全く無かったのは、李朝の支配階級の通弊で在ったとしても、高宗の実父であり、自身の恩人であった大院君を追放し、清国の袁世凱を唆して逮捕させるなど、智謀家では在ったが、その行いは倫理に大きく悖ったものだった。忘恩背徳の生涯であった。
高宗も、閔妃も、大院君も、ただ権力を維持する為に、その時々、力がある外国と結んで利用し、政治を弄んだ。この様な放逸な政治を行なった事から、1894年に東学農民の動乱が起きると、その乱の鎮定を清に委ねると言う愚行を犯し、日清戦争を誘発させた。しかし、高宗も廷臣達も何らの責任も感じなかった。
日清戦争の翌年の1896年2月11日の暁、高宗王と王世子は極秘の内に、宮城から脱出してロシア公使館に居所を移した。これを「俄館播遷」というが、朝鮮の悲劇は、このように一国の主権者である君主が、自ら王宮を脱すると言う怯弱な体タラクで在った事である。
更には、ロシア公使館に入ると、即座に警務官、安桓を呼びつけ、全然罪の無い金弘集総理大臣、鄭秉夏農相工部大臣、兪吉濬内務大臣、趙義淵、張博らの5大臣を、逆賊として捕殺する様命じた。
この様な理不尽な命令を伝え聞いた金弘集内閣は総辞職し、金は「私がこの国の内閣総理大臣として、全力を尽くした上で死を賜う事も天命である」として、従容として警官と群集によって惨殺された。鄭秉夏大臣も斬殺され、その屍体も鐘路に放置されたまま、群衆の投石を受け、数日間に亘って風雨に晒された。
正当な理由も無く、裁判も無く行なわれたこの暴挙に対し、ロシア公使も高宗に抗議した程だった。
呪われた国の悲しい終焉
そして李氏朝鮮は、1910年、高宗の子の純宗の代に滅亡した。純宗は、李成桂から数えて27代目だった。
李朝は倒れるべくして、倒れた。李氏朝鮮は儒教の朱子学を国教として定めながら、美辞麗句を弄ぶ裏で、私利私欲に駆られた党派抗争に耽って、汚れ切って居た。オゾマシイ階級制度によって、民衆を縦(ほしいまま)に苦しめて、収奪した。李氏朝鮮は今日の北朝鮮と全く変らず、人民には餓死するか、公開処刑によって死ぬか、強制収用所に入る自由しか無かった。
李朝が5世紀にも亘って韓族に君臨した為に、韓族の精神を歪めて仕舞った。「小中華」である事を誇って、呪われた国を創って仕舞った。
隣国の日本と何と大きく違って居た事だろう。日本は19世紀後半に西洋による脅威に直面すると、それを撥ね返すだけ強い力を、徳川期を通じて蓄えて居た。ところが、李氏朝鮮は骨の髄まで腐り切って居た。そこで人民の解放は、韓日併合という他力本願のものと、成ら非るを得なかったのである。
これは メッセージ 2842 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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