Re: 明成皇后の殺害 ①
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/06/05 19:11 投稿番号: [2842 / 6952]
「韓国併合への道」呉善花著より
日清戦争の最中の8月17日、陸奥外相は日清戦後の対朝鮮基本構想に四つの案を示して閣議に諮っている。
「甲案」朝鮮の自主独立放任
「乙案」日本による保護国化
「丙案」日清両国による朝鮮の共同担保
「丁案」永世中立国化
会議では結論が得られず、「乙案の大意を目的とする」に止まっている。保護国とは「隷属国の統治機能の一部を行使する保護関係を条約により設定する国家関係」を意味する。この様に、この時点では日本はハッキリと朝鮮独立から保護国化へと基本方針を転換したとは言えなかった。
下関条約の第1条で、中国と朝鮮の宗属関係を廃棄して朝鮮を「独立自主の国」とし、それに伴って旧来の「貢献典礼」を廃止すると宣言された事は、正しく朝鮮半島の歴史にとって一大画期を為す出来事であった。
1895年4月17日に日清講和条約(下関条約)が結ばれる。しかし、その直後にロシア・ドイツ・フランスが、日本が戦利として得た遼東半島の清国への返還を要求し、日本はこれに屈して遼東半島の領有を放棄する(三国干渉)。後に三国が日本への干渉の代償として、それぞれ清国から、遼東半島を始めとする各地の利権を得た事は言う迄も無い。
1895年10月8日閔妃殺害
1895年甲午改革によって推進されたのは、政治・経済・社会全般に亘る制度の大幅な近代化であり、農民軍から提議された幣制改革にも応え得るものであった。
併し乍ら、これらの改革推進には国王・閔妃・大院君各派の反発が強く、結局は実を結ぶ事は無かった。
その第一の理由は、国王がそもそも法的に制限を受けない最高権威として伝統化されていた為、制度が改まっても政策決定は依然として国王と取り巻きの重臣貴族によって行われた事に在った。つまり改革は王府から政治権力を奪う形を執らない侭進められ、その為に改革の内容を有効に実現する事が出来なかったのである。
特に李朝側が党派対立に終始して改革推進能力を欠いていた事が大きかった。また改革推進の過程で、日本は李朝政府各部門に政治顧問を派遣し、日本の朝鮮保護国化の意図が次第に鮮明となっていった為、朴泳孝ら旧改革派すら改革の遂行を妨害する様になり、朝鮮独自の改革案を意図する様になっていった。その事も、改革を実現出来なかった要因の一つだったろう。
全くの空想に過ぎないのだが、もし挙国一致で改革が進められていたとしたら、間違い無く王朝国家李朝は崩壊し、日本もロシアも容易に進出することの出来ない近代民族国家へと大きく変身を遂げていた筈である。
(仙人曰く、有り得ない。党争の国・李氏朝鮮で、挙国一致など出来る筈が無い。)
三国干渉後の世界は、最早かっての様に、日本が朝鮮から独占的に利権を獲得できる情勢には無かったからである。
(仙人曰く、朝鮮開国から日清戦争に至る迄の間、日本は、未だ朝鮮から独占的に利権を獲得したる事無し。)
事実、日本の李朝への300万円借款供与と引き換えに実現を図った、鉄道管理権の50年保有と日本軍の朝鮮駐留という利権に対しては、1895(明治26)年5月、欧米列国は強固な抗議を以って日本にそれを断念させている。
日清戦争の最中の8月17日、陸奥外相は日清戦後の対朝鮮基本構想に四つの案を示して閣議に諮っている。
「甲案」朝鮮の自主独立放任
「乙案」日本による保護国化
「丙案」日清両国による朝鮮の共同担保
「丁案」永世中立国化
会議では結論が得られず、「乙案の大意を目的とする」に止まっている。保護国とは「隷属国の統治機能の一部を行使する保護関係を条約により設定する国家関係」を意味する。この様に、この時点では日本はハッキリと朝鮮独立から保護国化へと基本方針を転換したとは言えなかった。
下関条約の第1条で、中国と朝鮮の宗属関係を廃棄して朝鮮を「独立自主の国」とし、それに伴って旧来の「貢献典礼」を廃止すると宣言された事は、正しく朝鮮半島の歴史にとって一大画期を為す出来事であった。
1895年4月17日に日清講和条約(下関条約)が結ばれる。しかし、その直後にロシア・ドイツ・フランスが、日本が戦利として得た遼東半島の清国への返還を要求し、日本はこれに屈して遼東半島の領有を放棄する(三国干渉)。後に三国が日本への干渉の代償として、それぞれ清国から、遼東半島を始めとする各地の利権を得た事は言う迄も無い。
1895年10月8日閔妃殺害
1895年甲午改革によって推進されたのは、政治・経済・社会全般に亘る制度の大幅な近代化であり、農民軍から提議された幣制改革にも応え得るものであった。
併し乍ら、これらの改革推進には国王・閔妃・大院君各派の反発が強く、結局は実を結ぶ事は無かった。
その第一の理由は、国王がそもそも法的に制限を受けない最高権威として伝統化されていた為、制度が改まっても政策決定は依然として国王と取り巻きの重臣貴族によって行われた事に在った。つまり改革は王府から政治権力を奪う形を執らない侭進められ、その為に改革の内容を有効に実現する事が出来なかったのである。
特に李朝側が党派対立に終始して改革推進能力を欠いていた事が大きかった。また改革推進の過程で、日本は李朝政府各部門に政治顧問を派遣し、日本の朝鮮保護国化の意図が次第に鮮明となっていった為、朴泳孝ら旧改革派すら改革の遂行を妨害する様になり、朝鮮独自の改革案を意図する様になっていった。その事も、改革を実現出来なかった要因の一つだったろう。
全くの空想に過ぎないのだが、もし挙国一致で改革が進められていたとしたら、間違い無く王朝国家李朝は崩壊し、日本もロシアも容易に進出することの出来ない近代民族国家へと大きく変身を遂げていた筈である。
(仙人曰く、有り得ない。党争の国・李氏朝鮮で、挙国一致など出来る筈が無い。)
三国干渉後の世界は、最早かっての様に、日本が朝鮮から独占的に利権を獲得できる情勢には無かったからである。
(仙人曰く、朝鮮開国から日清戦争に至る迄の間、日本は、未だ朝鮮から独占的に利権を獲得したる事無し。)
事実、日本の李朝への300万円借款供与と引き換えに実現を図った、鉄道管理権の50年保有と日本軍の朝鮮駐留という利権に対しては、1895(明治26)年5月、欧米列国は強固な抗議を以って日本にそれを断念させている。
これは メッセージ 2837 (whiterose20051 さん)への返信です.
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