東京大空襲は非道かったニダ 2
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2010/01/26 19:29 投稿番号: [9253 / 10735]
釜山で一泊した翌日、この男は「これからはいっさい、自由行動を許さない。ここまではお前らが家に帰ると言いかねないから大目に見た。これからはとんでもない」と私たちを脅した。関釜連絡船で約8時間後、下関に着いた。団体作業服に着替えさせられた(訳注③)。
10月10日に汽車に乗り2日後、東京に着き「宮城」前で誓約式をした後、製鋼所に着いた。製鋼所では、侵略戦争に必要な鉄鋼材を生産していた。5トン電気炉が3基、7.5トン用が1基の計4基があり二日に3回ずつ出鋼した。鉄鋼材は汽車で、汚物と鋼材廃棄物は船ですぐ側の運河を経て海に捨てられた。
3千余人の従業員のうち、約500人が朝鮮人だった。全羅道、慶尚道から連行された南部出身者と、平安南・北道から連れてこられた北部地域の者たちだった。出身道が違い性格が異なるため、最初はよそよそしかったが次第に仲良くなった。
私たちは一日12〜14時間、長い時は16時間、甚だしくは18時間も働かされた。しかし、技術は何も教えてくれなかったばかりか、汚物と鋼材を運び出す単純かつ骨の折れる作業だけを命じられた。作業場では監督の監視の目が光り、少しでも手を休めると怒号と鞭が容赦なく飛んできた。故郷を発つ時の約束とは違って、2年間汚物と鋼材運びだけをさせられた。完全に騙されたのだ。宿舎は木造の2階建てだった。1部屋に10人ずつ詰め込まれた。
作業後、宿舎に戻れば「神棚」の前に正座させられ「良く働いたか? ノルマは果たしたか? 出退勤時間を守ったか?」などと反省を強いられた。反省が足りないと晩飯をくれなかった。
食事は、平麦の麦飯やおから飯、代用食品のところてん120〜150グラムほどだった。腹が減って働けないと言えば、罰として「神棚」の前に正座させられ反省を強いられた。酷い時は鞭打ちまでするので、無条件で服従せざるをえなかった。
45年3月10日、米軍の飛行機数百機(当時の新聞では325機と報道していたと思う)が飛来した。東京とその周辺に高射砲が配備されていたが、いくら撃っても命中しなかった。
焼夷弾と爆弾が落とされたのは木造建物が多かったためだと思う。強風が吹いていたので紅蓮の炎で焼け死んだ人が多数いた。
当時日本は、「B29はサイパン・グアムから2時間かけて飛来し、2時間爆撃するからその間だけ防空壕にいれば大丈夫だ」と宣伝していた。しかしすべてを焼き尽くす炎と、息もできないほどの凄い煙で防空壕は何の役にも立たなかった(訳注④)。
夜間爆撃と焼夷弾による火焔で宿舎にいた朝鮮人全員が焼死・水死または窒息死した。工場で作業していた者も爆撃で死んだ。周辺の日本人労働者たちとその家族もたくさん死んだ。
あの日、夜間交代番だった私は気の置けないリ・キウォン(創氏名=木村永雄、19歳)と2人で、いつものようにスクラップを船に積んでいた。顔をあげて見回すと、工場も周辺もすべて火の海だった。四方八方から身の毛が逆立つような悲鳴といろんな音が聞えてきた。深夜にもかかわらず火災で真昼のように明るかった。私たちのように運河に飛び込んだ者は助かった。
工場側は千人ほどの労働者が助かったと言ったが信じられない。なぜならば、一緒に行った40余人中、生き残ったのはリ・キウォンと私の2人しかいなかったからだ。平安南・北道はもちろん、全羅道・慶尚道の人も誰一人探し出せなかった。全部死んだと思う。酷い火傷と真っ黒な炭の塊だから老若男女の区別がつかなかった。
私たちは乾パンをかじりながら製鋼所復旧作業に駆り出された。
私たちは製鋼所から抜け出し、400余里ほど歩いて千葉県に行った。全羅道出身の60代の朝鮮人に出会い、「食わせて寝かせてくれれば何でもする」との条件で「むつ飛行場」建設土木工事に加わった。
その人の名はキム・フンリャンだと記憶している。そうこうしている間に8月15日の解放を迎えたので3人で祖国に帰ることにした。10月中旬、下関に行ったが朝鮮に行く船がなかった。10日ほどかけずりまわって、やっと見つけた約50人が乗れる船(密船)で3日後、釜山に着いた。帰りは70余時間かかった。夜の9時頃だった。
3に続きます。
10月10日に汽車に乗り2日後、東京に着き「宮城」前で誓約式をした後、製鋼所に着いた。製鋼所では、侵略戦争に必要な鉄鋼材を生産していた。5トン電気炉が3基、7.5トン用が1基の計4基があり二日に3回ずつ出鋼した。鉄鋼材は汽車で、汚物と鋼材廃棄物は船ですぐ側の運河を経て海に捨てられた。
3千余人の従業員のうち、約500人が朝鮮人だった。全羅道、慶尚道から連行された南部出身者と、平安南・北道から連れてこられた北部地域の者たちだった。出身道が違い性格が異なるため、最初はよそよそしかったが次第に仲良くなった。
私たちは一日12〜14時間、長い時は16時間、甚だしくは18時間も働かされた。しかし、技術は何も教えてくれなかったばかりか、汚物と鋼材を運び出す単純かつ骨の折れる作業だけを命じられた。作業場では監督の監視の目が光り、少しでも手を休めると怒号と鞭が容赦なく飛んできた。故郷を発つ時の約束とは違って、2年間汚物と鋼材運びだけをさせられた。完全に騙されたのだ。宿舎は木造の2階建てだった。1部屋に10人ずつ詰め込まれた。
作業後、宿舎に戻れば「神棚」の前に正座させられ「良く働いたか? ノルマは果たしたか? 出退勤時間を守ったか?」などと反省を強いられた。反省が足りないと晩飯をくれなかった。
食事は、平麦の麦飯やおから飯、代用食品のところてん120〜150グラムほどだった。腹が減って働けないと言えば、罰として「神棚」の前に正座させられ反省を強いられた。酷い時は鞭打ちまでするので、無条件で服従せざるをえなかった。
45年3月10日、米軍の飛行機数百機(当時の新聞では325機と報道していたと思う)が飛来した。東京とその周辺に高射砲が配備されていたが、いくら撃っても命中しなかった。
焼夷弾と爆弾が落とされたのは木造建物が多かったためだと思う。強風が吹いていたので紅蓮の炎で焼け死んだ人が多数いた。
当時日本は、「B29はサイパン・グアムから2時間かけて飛来し、2時間爆撃するからその間だけ防空壕にいれば大丈夫だ」と宣伝していた。しかしすべてを焼き尽くす炎と、息もできないほどの凄い煙で防空壕は何の役にも立たなかった(訳注④)。
夜間爆撃と焼夷弾による火焔で宿舎にいた朝鮮人全員が焼死・水死または窒息死した。工場で作業していた者も爆撃で死んだ。周辺の日本人労働者たちとその家族もたくさん死んだ。
あの日、夜間交代番だった私は気の置けないリ・キウォン(創氏名=木村永雄、19歳)と2人で、いつものようにスクラップを船に積んでいた。顔をあげて見回すと、工場も周辺もすべて火の海だった。四方八方から身の毛が逆立つような悲鳴といろんな音が聞えてきた。深夜にもかかわらず火災で真昼のように明るかった。私たちのように運河に飛び込んだ者は助かった。
工場側は千人ほどの労働者が助かったと言ったが信じられない。なぜならば、一緒に行った40余人中、生き残ったのはリ・キウォンと私の2人しかいなかったからだ。平安南・北道はもちろん、全羅道・慶尚道の人も誰一人探し出せなかった。全部死んだと思う。酷い火傷と真っ黒な炭の塊だから老若男女の区別がつかなかった。
私たちは乾パンをかじりながら製鋼所復旧作業に駆り出された。
私たちは製鋼所から抜け出し、400余里ほど歩いて千葉県に行った。全羅道出身の60代の朝鮮人に出会い、「食わせて寝かせてくれれば何でもする」との条件で「むつ飛行場」建設土木工事に加わった。
その人の名はキム・フンリャンだと記憶している。そうこうしている間に8月15日の解放を迎えたので3人で祖国に帰ることにした。10月中旬、下関に行ったが朝鮮に行く船がなかった。10日ほどかけずりまわって、やっと見つけた約50人が乗れる船(密船)で3日後、釜山に着いた。帰りは70余時間かかった。夜の9時頃だった。
3に続きます。
これは メッセージ 9252 (jgeilsbandfreak さん)への返信です.
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