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東京大空襲は非道かったニダ 1

投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2010/01/26 19:25 投稿番号: [9252 / 10735]
東京大空襲を体験した宋正浩氏の証言   阿鼻叫喚の生き地獄

宋正浩氏は、1930年5月12日、平安北道江界郡立館面雲松洞で生まれた。生前は黄海北道麟山郡麟山邑64班で暮らした
  東京朝鮮人強制連行真相調査団(以下調査団)は2005年12月、東京大空襲で亡くなった朝鮮人犠牲者の遺骨を東京都慰霊堂で数十体確認した。
  その後、シンポジウム(06年)と追悼会(07〜09年)を催すかたわら、北南朝鮮に死亡者名簿を伝え遺族探しを依頼した。09年2月、朝鮮日本軍「慰安婦」・強制連行被害者補償対策委員会(以下対策委)から「体験者が名乗り出た。高齢だが記憶もしっかりしている。直接聞き取るなら歓迎する」とのメールが届き、調査団代表の体調快復後に訪ねることにした。しかしこれが取り返しのつかない後悔を生む。
  同年9月、「10月末に訪朝する。自宅まで案内してほしい」と連絡したところ、対策委から「遺憾だが体験者である宋正浩氏が8月12日、脳出血で死去した」と知らせてきた。腹立たしさと後悔に苛まれながら平壌に行った。そして、対策委に保管されていた宋氏の貴重な生前証言を見た。
  宋氏は帰国後、江界市(慈江道)と沙里院市(黄海北道)の人民委員会に勤務、98年4月(68歳)から年金生活に入っていた。「死ぬに死にきれなかった」宋氏の思い、生前の証言を遺族の諒解のもと全文紹介する。遺族に哀悼の意を表し、故人の冥福を心から祈る。

  「労働新聞」(08年5月25日付)に掲載された「東京大空襲で死亡した朝鮮人犠牲者に関する調査報告書」を読んだ。43年10月に連行され、45年5月まで東京都城東区(現在の江東区)の「東京特殊鋼管株式会社」にいた。45年3月10日未明、米軍の大型爆撃機「B29」が大量の焼夷弾を投下した。体験者の一人として具体的な状況を話したい。
  父親(ソン・ゲサム)は小作農だった。あらゆる苦労をしたすえ、私が9歳の時に亡くなった。私は姉4人、兄3人の末っ子だった。父に似て兄弟全員、体格が良かった。すでに7人の兄と姉が亡くなり私も80歳になった。
  末っ子だけは何としても勉強させようと家族が努力してくれたおかげで、私だけが「国民学校」に通った。母や兄弟たちの期待に応え立派な人になろうと一生懸命勉強し、優秀な成績で卒業した。
  卒業したその年、立館面事務所が卒業生の中から成績が良く体格のいい2人を「養成生」として選出した。日本に行って技術を修め、もっと学べてお金も儲けられるという話だった(訳注①)。
  親、兄弟と別れ異国に行くのは不安だったし怖くもあったが、お金も儲けられ勉強もでき、技術も習得できるということ、とくに「選ばれて行く優越感」からくるひそかな期待もあった。
  江界郡事務所に行くと、平安北道各地から「選ばれて来た」40余人が集まっていた。みな自分より年長に見えた。実際、彼らの平均年齢は19〜20歳、自分は14歳。みなが「背が高いので16歳ぐらいに見える。大丈夫だ」と言うのでためらわず従った。私は「森徳正浩」と呼ばれ、一緒に行った友人は「玉川徳水」と呼ばれた。彼の朝鮮名は思い出せない(訳注②)。
  立館面書記と在郷軍人、そして初めて見る者の3人が引率した。後になって日本から私たちを連れに来た者だとわかった。江界郡から釜山に行った。人員点呼の時、「森徳!」と呼ばれたが馴れないため返答に詰まった私を、男は「この野郎、てめえの名前も知らないのか」と尻を蹴りあげた。


2に続きます。
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