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在日の実態は蟹工船より酷いニダ1

投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2009/07/22 07:41 投稿番号: [8867 / 10735]
映画「蟹工船」とネオリベ日本社会

統治権力の追認、補強

  今夏公開の映画「蟹工船」(SABU監督、松田龍平主演)を私の受け持つ日本文学ゼミの学生らと観た。近年ブームとなって蘇った日本プロレタリア文学の名作「蟹工船」(小林多喜二作、1929年)を新たに映画化したものだ。特別何の期待も抱かずに見たのだが、はたしてひどい代物だった。原作を読んで鑑賞した学生たちの感想もおおむね芳しくなかった。うちのゼミ生の批評眼もまんざらではない。それが収穫といえば収穫だった。
  批判すべき点は多いが、何よりも、劣悪な条件下で酷使される労働者たちが団結し集団として立ち上がる必然性が、この映画からは伝わってこなかった。原作が描いた階級意識の自覚化と共有、抵抗の組織化・再組織化というプロセスを、映画はきわめて表層的になぞるのみで、労働者が立ち上がるべき根拠を明確に提示することもなく、逆にはなはだしくは浅薄で低質なB級コメディーにすりかえ解消してしまおうとする。
  一方で「被害者面するな、お前も悪い、不平ばかり言わず自分で考えろ…」といった言葉がちりばめられる。「個人」を強調するこれらのメッセージは、集団性への志向とは逆に、その実「個人」に全ての責任を帰すという、現下の格差社会を支える「自己責任」論とどこかで通じている気がしてならない。
  今日もはや階級意識が解体され、労働者が「個」へと分解されきっている日本の、資本に対抗する社会運動や思想の成長が容易ならぬ現状から省みれば、ブームを後追いした娯楽映画「蟹工船」に政治性を望むこと自体無いものねだりなのかもしれない。ならばなおのこと、この映画が下層で苦しむ人々にとって怒りを買いこそすれ、真の連帯と抵抗の契機や、真の希望を与えうるとは到底思えないのだ。
  今日「市場原理主義」をふりかざし世界を支配する新自由主義(ネオリベラリズム)の統治は、労働者を内部でバラバラに分裂・対立させ、失業と破産の恐怖を動員しながら(それは自己責任、自助努力なる論理とセットである)、労働市場における「自由」な消耗材へと仕立て上げる。こうして諸個人を市場の評価にのみ従順な主体として個人化させるネオリベラリズムの本質とは、「脱政治化の政治」(ブルデュー)だ。ならば焦眉の課題は、政治そのものを取り戻すことであらねばならないはずだ。
  ところが肝心の政治的課題を回避し、また権力が分散化され見えにくい現代だからこそ求められる、真の敵の姿、あり方を可視化させるためのリアリズムをあらかじめ放棄したうえで「個人」が強調されるならば、この映画は今日の統治権力を実質追認し、はからずも補強すらしてしまいかねないだろう。
  とくに1990年代以後、資本はむき出しの利潤追求のため、構造改革、規制緩和、民営化の看板の下、福祉、雇用、医療、教育などの諸権利を次々と縮小・はく奪していった。他方、ネオリベラリズムが実現する「小さな政府」とは決して「弱い」政府ではなく、警察力・軍事力による監視統制は飛躍的に強化されている。「蟹工船」に描かれた「北洋漁業」という暴利を生む国家的事業が、まさに帝国海軍に守られていたのを思い出す。それはまたロシア領海における侵略的掠奪でもあった。原作「蟹工船」は、国際的な視野から、このような独占資本と帝国軍隊の本質、およびその植民地的展開を暴露し、支配の構造を見据えたうえで、労働者集団の階級的覚醒と連帯と抵抗を描いた稀有の作品だったのである。


2に続きます。
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