朝鮮民族

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「植民地近代(性)」論 3

投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/06/10 05:08 投稿番号: [7654 / 10735]
植民地主義の抜け落ちた近代批判

  植民地朝鮮における「近代性」の存在を実証するのに急なあまり、「近代性」の上に形容詞としてついている「植民地」が副次的な意味合いしかもっていないように思える。「植民地」とは一体何なのかという点が抜け落ちているのである。植民地における「近代性」を過大に評価するならば、肝心の植民地と宗主国との歴史的差異が見えなくなってしまう。その差異は単に「近代性」の量的問題ではないはずだ。基本に立ちかえってみて、植民地主義の本質とは「近代性」にあるのではない。それはあくまでも宗主国総体の力による異民族支配にあり、したがって収奪・差別・抑圧、暴力関係がその基調をなすと見るべきだろう。植民地研究においては、「近代性」の浸透過程や主体形成の問題性を解き明かすこと以上に、それを内面化しえない人々の日常生活やその苦悶、抵抗の諸相などを復元する作業がより重視されるべきであろう。「植民地近代(性)」論は、経済史、政治史、民族運動史といった研究には、さほど関心がないためであろうか、それらの研究がかかえてきた問題意識との間で、必ずしも相互対話がうまくできていないようにも思われる。

民衆の存在を軽視

  「植民地公共性」なるものは、植民地権力によって上から創出されたものであり、一般にいう「市民的公共性」とは異なり、民衆によって自律的に形成されたものではない。それゆえ、植民地研究としてはその存在性を強調するよりは、その幻想性を解き明かすことこそが重視されなければならない。

  「植民地近代」論においては、朝鮮人エリートの姿を「近代主体」=「コラボレーター」(朝鮮史研究では、「対日協力者」と表現されてきた存在)として描いているが、「コラボレーター」という単語は、「ヨーロッパ中心主義的な表現であり、二項対立的な支配の構造に単純にはめ込もうとする概念であって、そこからは「植民地近代」論が問い直す「近代主体」の苦悩や葛藤は見えてこない」(前川一郎)と指摘されている。また、朝鮮人エリートを「対日協力者」と一般化するのではなく、歴史主体形成と関連して、大まかにいえば非主体的形成過程を歩む存在と主体的形成過程を歩む存在とに分けることができよう。近代朝鮮文学でいえば李光洙は前者に属し、尹東柱は後者に属するといえよう。植民地にとっての近代を考えるのであれば、「近代主体」の個々の経験に光を当てるだけでなく、それを全体につなげる関係性―そこにあらわれた権力構造−をも照射しようとするのでなければならない。また、植民地下におけるアイデンティティの複数性が指摘されているが、しかし、それ自体は、植民地に限らず、すべての近代国家に共通する経験であろう。むしろ、アイデンティティの複数性が、なぜある局面では民族主義言説につねに回収されてゆくのかという問いなしに、朝鮮の植民地状況を理解することは不可能だろう。

  「植民地近代」論は、朝鮮人エリートに対する関心に比べて、民衆への関心は薄い。それは「研究者による民衆からの主体の横奪になりかねない」(趙景達)。民衆にとって、「植民地公共性」の領域はあまりにも狭かったといえる。どれだけ多くの民衆が「公共性」に包摂されていたかは疑問であり、また、包摂されていても、民衆は民族や独立について語ることができなかったのであり、また、そのことにすでに慣れてしまっていたのである。そのため、多くの場合、民衆の抵抗は「公共性」の外側で風刺や隠語、流言飛語という形で表現されるしかなかったのである。


というわけで(どんなわけだ?)4へ。
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