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夕張は反省汁!1

投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/04/21 21:25 投稿番号: [7451 / 10735]
北海道・夕張炭鉱   一日19時間働かせ、水も飲まさず
山の上に「監獄部屋」「タコ部屋」

夕張市に残る炭鉱の残骸

  財政破綻で揺れている北海道・夕張市本町から南に下ると末広地区で、昔は古い炭住が並んでいた。その西側の山の斜面に、末広共同墓地が広がっている。だがこの墓地には、太い木がほとんどない。戦時中に北炭(北海道炭鉱鉄道会社)が、坑道を支える坑木として伐採したからだ。
  北炭は、坑木を伐る山林をたくさん持っていたが、遠隔地から輸送する手間を惜しみ「墓地の木を伐れば罰が当たる」という、「ヤマの人たちの声を足蹴にして伐ったからだ」(「地底の葬列」)と言う。この末広共同墓地に、過酷な労働や、逃亡者に対する激しいリンチなどで死んだ仲間の霊を慰めるため、夕張鉱寄宿舎朝鮮人有志一同が建立した「神霊の墓」がある。
  異国の土となった人たちが、祖国、朝鮮をはるかに眺めるかのように西向きに建っている。
  1930年5月の建立というから、古いが北炭・夕張にはこれほど早くから朝鮮人たちが来ていた。
  北海道庁の技師だった坂市太郎氏が幌内を調査したときに、石炭の露頭を見つけたのが1888年。翌年には北炭が創立され、夕張市で最初の「夕張炭鉱」は1890年に開坑された。
  開発が始まった時の坑夫は130人だったというが、「炭質が良く、埋蔵量が豊かなことから急速な開発」(「炭鉱―盛衰の記録」)が進められ、坑夫数も増加した。
  1894年に1480人だったのが、日露戦争後の1905年には、約4800人に増えていくが、その中で朝鮮人はどうだったのだろうか。
  大正時代(1925年前後)に北海道にいた朝鮮人労働者のほとんどが、石狩炭田の炭鉱労働者だったといわれている。北炭夕張には、1916年に35人の朝鮮人が入山したという記録があり、これが最初の大量採用の始まりのようだ。
  この人たちがどこから来たのか、また、その後どうなったのかを知る資料はない。しかし、北炭の中で「最も多くの朝鮮人労働者を使用したのは、夕張鉱業所であった。最盛期の1928年には、828人の数に昇っている。だが、1930年以降、国内の不況が深刻化するにつれて、朝鮮人労働者数は、100名を下回っていった」(「炭鉱に生きる」)が、こうした中で、朝鮮人たちは「神霊の墓」を建てたのだ。それまでに、どれほどの犠牲者があったのかはわかっていない。
  その後、大陸への侵略が本格化するにつれて石炭は増産され、坑夫などの労働力不足が深刻になった。北炭は、その不足分の補充を朝鮮人に求めたが、朝鮮人強制連行が始まった1939年の北海タイムス(10月9日付)は「半島人労働者第一陣職場の夕張各鉱に入山」の見出しで、「本道鉱山労働力の不足を補うため、遙々朝鮮から応募してきた半島労働者302名の一団は、職紹及炭鉱汽船係員に引率され、室蘭に入港し、追分経由7日午後6時38分夕張着、炭鉱汽船夕張鉱に入山した。一行は、最年少18歳から最年長40歳まで、大部分は20〜30歳の働き盛りの農村青年」と報じた。この以後、朝鮮人強制連行者は年を追って増加していく。
  だが、「朝鮮人労働者が宿泊する寮は、夕張では最も不便で、なおかつ逃亡しづらい山の上に集中していた。その寮は、『監獄部屋』『タコ部屋』と呼ばれ、窓には鉄格子があり、外には番犬を連れた不寝番の見張りがおり、まさに監獄であった」(「地底の葬列」)という。

このヨタは2に続きます。
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