3.1独立運動と「民族代表」 3
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/03/13 09:42 投稿番号: [7113 / 10735]
「民族代表」研究における通説の問題点
3.1運動研究は朝鮮近代史研究の中でもっとも蓄積がある。とりあげられた論点は多岐にわたるが、とりわけ「民族代表」の評価をめぐっては、姜徳相―朴慶植論争に見られるような相反する見解がある。「民族代表」とは、独立宣言書に署名し「民族代表」を自称した天道教、キリスト教、仏教系の33人のことである。姜、朴の両氏は、「民族代表」が3.1運動の契機をつくったという点では一致しながらも、姜は彼らの対外依存性、民衆蔑視意識と運動の実際面での阻止的役割を強調している。これに対し朴は、そのような見解は当時の主客観的諸条件を無視した教条主義的観点であるとし、独立宣言書は政治的に高度な宣言書であること、非暴力の闘いは当時のもっとも大衆的・創造的な闘争形態であったことを強調している。このようなあい反する評価は、すでに1920年代から社会主義陣営と民族主義陣営との間でイデオロギー対立とも結びつきながら、なされていた。
「民族代表」と民族主義者一般を同一視
「民族代表」の評価をめぐる論争には、その前提となる事実関係の通説において二つの問題点がある。その一つは、「民族代表」と民族主義者一般を同一視していることである。朝鮮の民族運動は1910年前後に、民族運動の生命線ともいうべき反帝・反日的立場と闘争方法において妥協主義的潮流と非妥協主義的潮流に分化し始めていた。
後者は、国の完全独立を掲げ非妥協的に闘ったが、前者は、「先実力養成、後独立」「法秩序の尊重」を強調し事実上独立運動から後退していった。たとえば、大韓協会や天道教の上層部は、「近代化」を標榜しながら統監府に接近し、その体制内での「自治」活動を繰り広げた。その後、非妥協的潮流は間島やシベリアなど国外に活動拠点を移し、独立運動を継続する。一方、妥協的潮流は、国内の宗教・教育機関に身を置いて、総督府体制と抵触しない範囲内で宗教・教育活動を行う。「民族代表」は10年代のこうした国内の妥協主義的な流れを汲むものであった。20年代「文化政治」下における民族改良主義の萌芽ともいうべきものが、すでにこの時期に見られるのである。
4に続きます。
3.1運動研究は朝鮮近代史研究の中でもっとも蓄積がある。とりあげられた論点は多岐にわたるが、とりわけ「民族代表」の評価をめぐっては、姜徳相―朴慶植論争に見られるような相反する見解がある。「民族代表」とは、独立宣言書に署名し「民族代表」を自称した天道教、キリスト教、仏教系の33人のことである。姜、朴の両氏は、「民族代表」が3.1運動の契機をつくったという点では一致しながらも、姜は彼らの対外依存性、民衆蔑視意識と運動の実際面での阻止的役割を強調している。これに対し朴は、そのような見解は当時の主客観的諸条件を無視した教条主義的観点であるとし、独立宣言書は政治的に高度な宣言書であること、非暴力の闘いは当時のもっとも大衆的・創造的な闘争形態であったことを強調している。このようなあい反する評価は、すでに1920年代から社会主義陣営と民族主義陣営との間でイデオロギー対立とも結びつきながら、なされていた。
「民族代表」と民族主義者一般を同一視
「民族代表」の評価をめぐる論争には、その前提となる事実関係の通説において二つの問題点がある。その一つは、「民族代表」と民族主義者一般を同一視していることである。朝鮮の民族運動は1910年前後に、民族運動の生命線ともいうべき反帝・反日的立場と闘争方法において妥協主義的潮流と非妥協主義的潮流に分化し始めていた。
後者は、国の完全独立を掲げ非妥協的に闘ったが、前者は、「先実力養成、後独立」「法秩序の尊重」を強調し事実上独立運動から後退していった。たとえば、大韓協会や天道教の上層部は、「近代化」を標榜しながら統監府に接近し、その体制内での「自治」活動を繰り広げた。その後、非妥協的潮流は間島やシベリアなど国外に活動拠点を移し、独立運動を継続する。一方、妥協的潮流は、国内の宗教・教育機関に身を置いて、総督府体制と抵触しない範囲内で宗教・教育活動を行う。「民族代表」は10年代のこうした国内の妥協主義的な流れを汲むものであった。20年代「文化政治」下における民族改良主義の萌芽ともいうべきものが、すでにこの時期に見られるのである。
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これは メッセージ 7093 (jgeilsbandfreak さん)への返信です.
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