反日義兵「戦争」 1
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/03/09 15:19 投稿番号: [7052 / 10735]
反日義兵「戦争」
交戦団体としての承認、外国に要請
日清戦争開戦を目的とする日本軍大部隊の朝鮮侵入、そして王宮占領をきっかけに始まった反日義兵闘争は、その後1910年代前半まで、ほぼ20年間にわたって展開された。日本帝国主義は義兵を「暴徒」に矮小化しようとしたが、実態は、闘争の規模から見ても、義兵将の闘争観から見ても戦争に匹敵するものであった。
各地に展開した義兵部隊の中でも注目されるのは、李麟栄・許らを義兵将とする13道倡義大陣所に集結した義兵連合部隊である。1908年1月末、許は300人の先遣隊を率いてソウル東大門から30里の地点まで肉薄したが、日本軍の攻撃の前に敗退を余儀なくされてしまった。許はソウル進攻に先んじてソウルの各国領事館に書状を送り、日本の不義を訴えるとともに、義兵部隊を国際法上の交戦団体として承認するよう要求した。
交戦団体の資格は、1899年の第1回万国平和会議と1907年の第2回万国平和会議の「陸戦の法規慣例に関する規則」によって成文化されたが、許はこの戦争法規を念頭においていたと思われる。同規則の第一章では「交戦者の資格」について規定している。「交戦者」を正規軍だけに適用したのではなく、「民兵と義勇軍」にも適用している。第二章では、交戦当事者である戦闘員および非戦闘員は俘虜の待遇を受ける権利が保証されると規定した。
義兵側の膨大な犠牲者数
日本の鎮圧軍が編さんした義兵部隊に対する弾圧の統計が残っている(「朝鮮暴徒討伐誌」1913年)。この統計で注目すべきはまず、義兵側の膨大な犠牲者数である。1907年8月から1910年までの3年半の間に、日本側の「戦死」者は133人にすぎないが、義兵側の被「殺りく」者は133倍の1万7688人に達している。日清戦争における日本軍の戦死者を上回る数である。次に、「捕虜」の数が被「殺りく」者の9分の1に相当する1933人にすぎないことである。ほかの戦争の一般的な事例から比較しても戦死者よりも捕虜の数が極端に少ない。たぶん、義兵の投降の機会に乗じた虐殺が多々あったのだろう。また、「殺りく」された者には義兵とともに一般住民も含まれていたことは間違いない。「朝鮮暴徒討伐誌」が義兵側の死亡者を「戦死」としないで「殺りく」と書いたのも、一般住民を含む朝鮮人の大量虐殺を暗示している。
ロンドン・デイリー・メール特派員としてソウルに滞留していたマッケンジーは、1907年の初秋、利川・堤川・原州などで日本軍によって焼き払われ廃墟と化した村を見て回り、義兵の根拠地にまで足を運び取材したが、このとき彼が書いた記録を見ても、まさに日本軍による義兵弾圧は焦土作戦であり、無差別虐殺であったことがわかる。
2に続きます。
交戦団体としての承認、外国に要請
日清戦争開戦を目的とする日本軍大部隊の朝鮮侵入、そして王宮占領をきっかけに始まった反日義兵闘争は、その後1910年代前半まで、ほぼ20年間にわたって展開された。日本帝国主義は義兵を「暴徒」に矮小化しようとしたが、実態は、闘争の規模から見ても、義兵将の闘争観から見ても戦争に匹敵するものであった。
各地に展開した義兵部隊の中でも注目されるのは、李麟栄・許らを義兵将とする13道倡義大陣所に集結した義兵連合部隊である。1908年1月末、許は300人の先遣隊を率いてソウル東大門から30里の地点まで肉薄したが、日本軍の攻撃の前に敗退を余儀なくされてしまった。許はソウル進攻に先んじてソウルの各国領事館に書状を送り、日本の不義を訴えるとともに、義兵部隊を国際法上の交戦団体として承認するよう要求した。
交戦団体の資格は、1899年の第1回万国平和会議と1907年の第2回万国平和会議の「陸戦の法規慣例に関する規則」によって成文化されたが、許はこの戦争法規を念頭においていたと思われる。同規則の第一章では「交戦者の資格」について規定している。「交戦者」を正規軍だけに適用したのではなく、「民兵と義勇軍」にも適用している。第二章では、交戦当事者である戦闘員および非戦闘員は俘虜の待遇を受ける権利が保証されると規定した。
義兵側の膨大な犠牲者数
日本の鎮圧軍が編さんした義兵部隊に対する弾圧の統計が残っている(「朝鮮暴徒討伐誌」1913年)。この統計で注目すべきはまず、義兵側の膨大な犠牲者数である。1907年8月から1910年までの3年半の間に、日本側の「戦死」者は133人にすぎないが、義兵側の被「殺りく」者は133倍の1万7688人に達している。日清戦争における日本軍の戦死者を上回る数である。次に、「捕虜」の数が被「殺りく」者の9分の1に相当する1933人にすぎないことである。ほかの戦争の一般的な事例から比較しても戦死者よりも捕虜の数が極端に少ない。たぶん、義兵の投降の機会に乗じた虐殺が多々あったのだろう。また、「殺りく」された者には義兵とともに一般住民も含まれていたことは間違いない。「朝鮮暴徒討伐誌」が義兵側の死亡者を「戦死」としないで「殺りく」と書いたのも、一般住民を含む朝鮮人の大量虐殺を暗示している。
ロンドン・デイリー・メール特派員としてソウルに滞留していたマッケンジーは、1907年の初秋、利川・堤川・原州などで日本軍によって焼き払われ廃墟と化した村を見て回り、義兵の根拠地にまで足を運び取材したが、このとき彼が書いた記録を見ても、まさに日本軍による義兵弾圧は焦土作戦であり、無差別虐殺であったことがわかる。
2に続きます。
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