朝鮮民族

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

大韓帝国の歴史的性格2

投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/02/08 16:39 投稿番号: [6581 / 10735]
  1897年から1904年初めにかけて実施された韓国政府の諸政策には、1960年代末以来、朝鮮半島の南の歴史学者により「光武改革」という名称が与えられている。「光武改革」は皇帝権を強化して富国強兵を自主的に行おうとしたと評価されており、現在、学界からはこれといった異論がない。北でも、最近、この時期の諸政策について、その自主的・近代的な側面を高く評価するようになった。

  ただ立憲君主制をめざした甲午改革よりも王権が強化された点、日本の帝国憲法にある三権分立や国民の権利規定が大韓国国制(1899年制定の憲法)にない点など、王権の性格をめぐり立憲君主制構想であるのか専制君主制構想なのかをめぐっては、かなりの異論が残っている。しかし、ここで考慮すべきは、朝鮮における近代国民国家形成過程に外勢が介入し、一部官僚と結託し王権に対する威嚇と制約を加えたために、開化派官僚によって行われた立憲君主制国家をめざした甲申政変、甲午改革が広範な民衆の支持を得ることができなかったということである。また、王権集中をめぐって政府内で衝突が繰り返され、国家機構が弱体化するなかで、高宗は李容翊を中心とする皇帝側近の勤皇勢力に依拠し宮内府が主導する改革を進めていったということである。このような特殊な事情を考慮した場合、大韓帝国はその性格上、皇帝権を中心に近代国民国家を構想したという点で、専制君主制が近代的に変容した政権だったということができよう。

その限界性

  高宗とその側近勢力は、政府内で孤立していた。立憲君主制すら認めようとしないその近代国家樹立の試みには限界があった。

  また、税金負担増加による民衆の経済的没落は加速化し、各地で農民の抗租・抗税運動、活貧党闘争が日常化するなど民衆層からの広範な抵抗に直面した。

  とくに「乙巳五条約」強制調印以後には、専制君主国家を否定する動きがはっきりとあらわれてくる。新民会勢力は民権論を発展させて共和制に立脚した国民国家の建設を構想しはじめており、後期義兵闘争でも、前期の抗日・反開化および君主権擁護という目的から、抗日・反封建闘争の性格がいっそう明確になった。

  韓国併合前後に新民会や義兵の一部は満州や沿海州に移住し、より発展的な形である独立軍運動へと合流していった。彼ら独立運動家は3.1運動を契機に、「民主共和制」を掲げた「大韓民国臨時政府」をついに組織するに至るのである。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2008.2.8]


この人、一応は「併合」という言葉を使用していますね。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)