朝鮮民族

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義務を果たさず要求はします。(1)

投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2006/06/27 16:45 投稿番号: [1162 / 10735]
〈原告の証言から−上〉   京都   在日同胞高齢者無年金訴訟


同胞の苦難、伝えるため

  日本が国民年金法創設時に国籍要件を設け撤廃後も経過措置をとらなかったことによって、無年金状態に置かれている京都の同胞女性5人が、日本政府に国家賠償を求めている「同胞高齢者年金訴訟」の第8回公判が8日、京都地裁で行われた(次回は9月28日、結審予定)。前回の2人に続き、3人の原告が証言した。その要旨を2回に分けて紹介する。

高五生さん(85)

  私は女手ばかりの農家に育ちました。父は、私が物心ついたときにはすでに日本におり、聞いたところでは苦しい生活を支えるために、九州の炭坑で働いているということでした。農家の仕事は力仕事ですし、もともと小作農であったため財産もなく、父がいない状態での生活は苦しくなる一方でしたので、私は13歳のとき、妹1人と連れだって、父を頼って日本に渡ってきました。

  私は17歳のころに結婚をしています。相手は近所に住んでいる、父の知り合いの男性で、15歳も年上であるうえに、連れ子もありました。親子3人でなんとか自活できるように、叔父のところを離れ、くず鉄拾いの仕事をしたり、傘はりの仕事を手伝ったりと、仕事と住まいを転々としながら、生きていくのが精一杯でした。

  私が京都にたどりついたのは、そうした生活を何年か続けたすえのことです。西陣で「紙箱造り」の工場に入り、近くの家に間借りして住んでいました。夫は箱を作って配達するためにリヤカーを引いて市内中を歩き回り、私は箱作りの内職をするという二人三脚で働きづめの日々を過ごしました。その後、東九条に移り、何人かの同胞で集まり、工場を借りて砥石屋の仕事を始めたのです。砥石屋の仕事は、みんなで力を合わせてがんばった甲斐があって、2〜3年もすれば軌道に乗りました。しかし戦況が悪化する中で、工場自体が徴用されてしまったため、それからはくず鉄屋の仕事をして何とか生活していました。

  戦争が終わったとき、私はこれで故郷に帰れるという思いでいっぱいでした。私だけでなく、同胞の誰しもが、「帰ろう、帰ろう」という感じで、もうすぐにでも帰れると思っていました。しかし、私たちはこのころまでにはもう故郷を離れて久しく、朝鮮全体も安定していない情勢で、住んでいた土地もどうなっているかわからない状態でした。ほかの同胞も同じ状態で、気持ちとは裏腹に、ほとんどの人が帰るに帰れない有様でした。

  朝鮮自体が安定しないことや、そもそも帰るための船の番も回ってこないこと、せっかく船に乗っても無事に帰れる保障もないことなどや、夫の兄が収容所に入れられたことなどを考えると、私も夫も、すぐには故郷に帰ることができませんでした。それでもこんな時代は長くは続かず、いずれ統一した国ができれば、安心して帰ることができると思っていました。
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