朝鮮を笑う

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斜め上の雲 74

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/08/05 03:24 投稿番号: [1704 / 2847]
  このころ、錫元は末弟華秉の生活費および学資を負担しないようになっている。金村の金家から華秉がいなくなったからであった。
  養子に出たのである。
  支那、朝鮮の家族制度においては「異姓ハ養ハズ」といい、原則的に他家の男子を養子にせず一族の中からむかえる。とくに朝鮮は、族譜上じぶんの同世代にあたる者の男子から養子をえらぶことで、一族をつらぬく父系の血脈と族譜の世代秩序とをきわめて厳格にまもっている。娘に婿養子をとらせるという発想はほとんど例をみない。
  錫元、華秉の父である信五は金家の本家筋であったが、いとこすじにあたる金源五の息子が病死し後嗣がいなくなったため、華秉は養嗣子としてもらわれたのである。

  ゆらい儒教は孝をやかましくいう。
  代々の先祖より血脈を受け継ぎ親から授けられた肉体をきずつけることなくまっとうして、次の世代へ血脈をつたえて先祖の祭祀をたやさないようにするというのが、かれらのいう孝である。
  ゆえに、男子が跡継ぎのないまま死ぬことは祭祀を途絶えさせることであり、最大の不孝であるとされた。これを回避するための末期養子、死後養子による家督相続がしばしばあった。
  七四年、四歳の華秉は、金村の実家を離れ慶州の養家に引き取られた。

  慶州は新羅の古都であり、朝鮮戦争中錫元はその北の浦項で戦ったことがある。養父である金源五は銀行の支店長をつとめているため、養家は経済的にややめぐまれていた。近所にはおなじ年頃のこどもが多く、華秉もしぜん群れて遊ぶようになった。

  としは金華秉よりひとつ上で、国民学校から高校までずっと同学だった韓世実(ハン・セシル)のばあいは、国民学校に入る前に書堂(ソダン)というものに入った。儒者が漢字や儒礼をおしえるもので、寺子屋とかわらなかった。
「世実は、この書堂に入ったとき、まだまげを結っていた」
  と、華秉は後年よくからかった。世実の父方の祖父は大韓帝国の両班であり、かなりの資産家であったが、このひとが大の倭洋ぎらいで、自分もまげのまま生涯を通し、初孫の世実にもまげを切らさなかった。断髪令は国が朝鮮であった一八九五年に出ており、まげはもはや過去の遺物となっていたため、書堂に入ると、
「おきまりシル」
  といわれた。朝鮮語で「おきまり」は「常套(サングトゥ)」といい、まげと同音である。世実は従順な子だったが、このことを子供心に苦にしていた。

  華秉は家が近所どうしであるため、書堂にかよう世実のすがたをよく見かけたが、とくに接触があったわけではなかった。国民学校に入ったときおなじクラスになり、ようやく親しくなったが、しかしあそび仲間としてはべつべつのグループに属していた。
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