斜め上の雲 49
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/06/27 21:46 投稿番号: [1601 / 2847]
朴正煕は経済発展に必要な外貨を獲得するため、なりふりかまわずあらゆる方策をつくしたといっていい。
建設ラッシュに沸く中東に労働者を投入し、西ドイツの鉱山には看護婦を派遣し、ベトナム戦争に韓国軍を参戦させた。さらには、妓生(キーセン)を養成し、韓国観光の目玉として外国人旅行客を集客しようとまでした。
アメリカは朴のベトナム戦争参戦要求をうとましくおもったが、結局承諾した。
太平洋戦争に勝利して好戦的気分が残っていた朝鮮戦争でさえ、
「極東の見知らぬ半島でアメリカの青年の血を流す必要があるのか」
という世論があった。今回の戦争は朝鮮よりさらに遠いベトナムである。しかも南ベトナム政府の腐敗ぶりは知れわたっていた。アメリカ国内ではこの戦争にたいする批判が大きくなっていった。
これ以上、自国の若者の血を流したくないアメリカとしては兵力がほしい。そこをみこして朴は派兵をもちかけたのである。
むろん、無料(ただ)ではない。経済開発に必要な借款の供与をもとめた。足元をみられたかたちであるがアメリカはそれをのんだ。
六五年、猛虎師団一万数千を派兵して本格的に参戦し、七三年の撤収まで、のべ三十一万人の兵力が派遣された。
この時期、中佐になっていた錫元は、戦史研究室から部隊指揮官に転じた。
クーデターによって成立した朴正煕政権は、信頼できる軍幹部が多くはなかったため、前政権下ではいわば閑職ともいえる場に身をおいて政争に関与せず、さらに政治に関心のないことが知られていた錫元を現場指揮官に登用したのであった。
また、このころ錫元は結婚をした。相手は幼なじみの文景福の末妹春香である。景福の父である士誠の熱心なすすめによった。
「元ほどええ男はおらん。うちのを任せられる」
士誠がそういってしつこくすすめたため、ついに錫元も承知した。
「まるで上官命令だったよ」
後年、錫元はそう笑った。
一方、金村の金家では異変があった。
錫元の下にすでに四人の子がある。その養育だけでも大変であるのに、一九七〇年、孟瓔玉の死後にむかえた後妻に男児がうまれたのである。
「いっそ、海外養子にだそうか」
と、その懐妊中、当主の信五は後妻にいった。朝鮮戦争後の韓国では、戦争で養育者をうしなった孤児を、国内ではなく海外に引きとってもらうということが多かった。ついでながらいうと、戦災孤児が存在しなくなってからも海外への養子はたえることがない。
それを、帰省中だった錫元がきいていて、「それはだめでございます」と、両親の前にやってきた。由来、朝鮮語というのは世界でもっとも長幼の序をやかましくいうことばであるとされている。
「父上さま、赤ン坊を外国にやってはいけませぬ。わたしの給料で、ハモニカ・カルビほどのお金をおつくりいたします」
朝鮮語では敬意をあらわすとき、日本人からみれば過剰かとおもえるほど相手に尊敬語をつかう。
「ハモニカ・カルビほどのお金」
というたとえも、いかにも韓国らしい。ハモニカ・カルビは骨が手のひらほど大きく、たっぷりぶあつい肉がついており、手にもってかじるすがたがまるでハーモニカを吹いているようにみえることに由来する。紙幣を積みかさねてそのカルビほどのあつさにしたいと、金村のおとなどもはいう。それを錫元は耳にいれていたらしい。
建設ラッシュに沸く中東に労働者を投入し、西ドイツの鉱山には看護婦を派遣し、ベトナム戦争に韓国軍を参戦させた。さらには、妓生(キーセン)を養成し、韓国観光の目玉として外国人旅行客を集客しようとまでした。
アメリカは朴のベトナム戦争参戦要求をうとましくおもったが、結局承諾した。
太平洋戦争に勝利して好戦的気分が残っていた朝鮮戦争でさえ、
「極東の見知らぬ半島でアメリカの青年の血を流す必要があるのか」
という世論があった。今回の戦争は朝鮮よりさらに遠いベトナムである。しかも南ベトナム政府の腐敗ぶりは知れわたっていた。アメリカ国内ではこの戦争にたいする批判が大きくなっていった。
これ以上、自国の若者の血を流したくないアメリカとしては兵力がほしい。そこをみこして朴は派兵をもちかけたのである。
むろん、無料(ただ)ではない。経済開発に必要な借款の供与をもとめた。足元をみられたかたちであるがアメリカはそれをのんだ。
六五年、猛虎師団一万数千を派兵して本格的に参戦し、七三年の撤収まで、のべ三十一万人の兵力が派遣された。
この時期、中佐になっていた錫元は、戦史研究室から部隊指揮官に転じた。
クーデターによって成立した朴正煕政権は、信頼できる軍幹部が多くはなかったため、前政権下ではいわば閑職ともいえる場に身をおいて政争に関与せず、さらに政治に関心のないことが知られていた錫元を現場指揮官に登用したのであった。
また、このころ錫元は結婚をした。相手は幼なじみの文景福の末妹春香である。景福の父である士誠の熱心なすすめによった。
「元ほどええ男はおらん。うちのを任せられる」
士誠がそういってしつこくすすめたため、ついに錫元も承知した。
「まるで上官命令だったよ」
後年、錫元はそう笑った。
一方、金村の金家では異変があった。
錫元の下にすでに四人の子がある。その養育だけでも大変であるのに、一九七〇年、孟瓔玉の死後にむかえた後妻に男児がうまれたのである。
「いっそ、海外養子にだそうか」
と、その懐妊中、当主の信五は後妻にいった。朝鮮戦争後の韓国では、戦争で養育者をうしなった孤児を、国内ではなく海外に引きとってもらうということが多かった。ついでながらいうと、戦災孤児が存在しなくなってからも海外への養子はたえることがない。
それを、帰省中だった錫元がきいていて、「それはだめでございます」と、両親の前にやってきた。由来、朝鮮語というのは世界でもっとも長幼の序をやかましくいうことばであるとされている。
「父上さま、赤ン坊を外国にやってはいけませぬ。わたしの給料で、ハモニカ・カルビほどのお金をおつくりいたします」
朝鮮語では敬意をあらわすとき、日本人からみれば過剰かとおもえるほど相手に尊敬語をつかう。
「ハモニカ・カルビほどのお金」
というたとえも、いかにも韓国らしい。ハモニカ・カルビは骨が手のひらほど大きく、たっぷりぶあつい肉がついており、手にもってかじるすがたがまるでハーモニカを吹いているようにみえることに由来する。紙幣を積みかさねてそのカルビほどのあつさにしたいと、金村のおとなどもはいう。それを錫元は耳にいれていたらしい。
これは メッセージ 1598 (toapanlang さん)への返信です.
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