斜め上の雲 26
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/04/30 20:49 投稿番号: [1423 / 2847]
鎮海は桜の名所である。
春にはまち全体が桜につつまれるといっていい。ロータリーから放射線状にのびる道の両脇には桜が植えられている。
しかし、それは先年までのことであった。光復後、
「桜は日帝の象徴だ」
として桜を全部切り倒してしまったのである。
もっとも、後年のことになるが、結局は植えなおされた。
「ここの桜は済州島の王桜がもとである」
ということがいわれたからであった。いわば「桜は韓国起源だから」として免罪されたといっていい。ただし、桜を復活させたいがためにむりやり論理をつくりあげたというふうがしないでもない。
その論理はさらに後年、「日本の桜の代表であるソメイヨシノは済州島原産である」とあらぬ方向へ発展するのだが、ここでは擱(お)く。
本題からはずれるようだが、いますこし鎮海について。
円形ロータリーとそこから車輪のやのように八方へのびる道路は、同じ形式をもつ大連のそれとならんで有名だが、これについても伝説がある。
「日帝が海軍旗を模してつくった」
というのである。
朝鮮の地にはこのような「日帝神話」があふれている。
むろんその多くが実話ではない。鉄杭伝説はとくに有名だが、ソウルの北漢山を「大」と見たて、総督府を「日」、京城府庁舎を「本」という字をかたどってつくり「大日本」という字によって、風水的に朝鮮民族の精気をたとうとした、という説にいたっては、韓国人でもうたがうものが多い。この並び方では、総督府は「日」を横にしたかたちで、府庁舎はさかさまになってしまう。そのようなまぬけなものをつくる日本人がいるだろうか。
この民族はどうやら創造力をあらぬ方向に飛躍させることが得意であるらしい。
ともあれ、錫元が歩いていたころの鎮海には、桜はない。それにくわえて、もとの持ち主をうしなった日本家屋が多く残り、いっそううらぶれた感じがした。
ノートと手みやげのマッコルリ、金を節約するためじぶんで釣った魚をかかえて、切られた桜の株が墓標のように林立するまちを歩きまわったことは、錫元にとってあざやかなおもいでとなった。
51年に学校が正規4年制課程として再開したとき入学したのは全斗煥、盧泰愚ら11期生であったが、事実上の1期生とみなされていた。
ある日、全斗煥が校庭で錫元に会ったことがある。
「金よ、そんなに日本軍のことばかり調べてどうするんだ」
他の生徒や教師たちにとってかれの行動が奇異にうつったことは先にふれた。この質問はふしぎではない。
が、錫元はふしぎそうな顔をしてこの先輩の顔を見つめ、
「せっかくの標本があるというのに、これを捨ておいてどうするのですか」
と、反問した。
くりかえすようだが、かれにとってはあらゆるものが勉強の対象であり師匠であった。
全は、一瞬考えてしまった。
(なるほど、そうかもしれんな)
と、思いなおした。そして、太平洋戦争や朝鮮戦争の戦訓について錫元の話をきいたが、いちいち感嘆した。
(どんな経験からでも、教訓はひきだせるものなのか)
後年にいたるまで、全はこのはなしをおぼえていたらしい。
春にはまち全体が桜につつまれるといっていい。ロータリーから放射線状にのびる道の両脇には桜が植えられている。
しかし、それは先年までのことであった。光復後、
「桜は日帝の象徴だ」
として桜を全部切り倒してしまったのである。
もっとも、後年のことになるが、結局は植えなおされた。
「ここの桜は済州島の王桜がもとである」
ということがいわれたからであった。いわば「桜は韓国起源だから」として免罪されたといっていい。ただし、桜を復活させたいがためにむりやり論理をつくりあげたというふうがしないでもない。
その論理はさらに後年、「日本の桜の代表であるソメイヨシノは済州島原産である」とあらぬ方向へ発展するのだが、ここでは擱(お)く。
本題からはずれるようだが、いますこし鎮海について。
円形ロータリーとそこから車輪のやのように八方へのびる道路は、同じ形式をもつ大連のそれとならんで有名だが、これについても伝説がある。
「日帝が海軍旗を模してつくった」
というのである。
朝鮮の地にはこのような「日帝神話」があふれている。
むろんその多くが実話ではない。鉄杭伝説はとくに有名だが、ソウルの北漢山を「大」と見たて、総督府を「日」、京城府庁舎を「本」という字をかたどってつくり「大日本」という字によって、風水的に朝鮮民族の精気をたとうとした、という説にいたっては、韓国人でもうたがうものが多い。この並び方では、総督府は「日」を横にしたかたちで、府庁舎はさかさまになってしまう。そのようなまぬけなものをつくる日本人がいるだろうか。
この民族はどうやら創造力をあらぬ方向に飛躍させることが得意であるらしい。
ともあれ、錫元が歩いていたころの鎮海には、桜はない。それにくわえて、もとの持ち主をうしなった日本家屋が多く残り、いっそううらぶれた感じがした。
ノートと手みやげのマッコルリ、金を節約するためじぶんで釣った魚をかかえて、切られた桜の株が墓標のように林立するまちを歩きまわったことは、錫元にとってあざやかなおもいでとなった。
51年に学校が正規4年制課程として再開したとき入学したのは全斗煥、盧泰愚ら11期生であったが、事実上の1期生とみなされていた。
ある日、全斗煥が校庭で錫元に会ったことがある。
「金よ、そんなに日本軍のことばかり調べてどうするんだ」
他の生徒や教師たちにとってかれの行動が奇異にうつったことは先にふれた。この質問はふしぎではない。
が、錫元はふしぎそうな顔をしてこの先輩の顔を見つめ、
「せっかくの標本があるというのに、これを捨ておいてどうするのですか」
と、反問した。
くりかえすようだが、かれにとってはあらゆるものが勉強の対象であり師匠であった。
全は、一瞬考えてしまった。
(なるほど、そうかもしれんな)
と、思いなおした。そして、太平洋戦争や朝鮮戦争の戦訓について錫元の話をきいたが、いちいち感嘆した。
(どんな経験からでも、教訓はひきだせるものなのか)
後年にいたるまで、全はこのはなしをおぼえていたらしい。
これは メッセージ 1395 (toapanlang さん)への返信です.
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