斜め上の雲 9
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/02/17 15:36 投稿番号: [1208 / 2847]
金錫源はとくに錫元に目をかけてくれた。
「まだ若いおまえを前線に出すわけにはいかない。わしの副官がわりに連絡兵をしながら勉強しろ」
そういって、戦闘のあいまにみずから戦術や英語の初歩について講義をした。
「基礎は叩きこんでやる」
あとは自分で考えることだ、ともいった。
金錫源は、日本の陸軍士官学校を卒業したあと、北支戦線で活躍し、山西では一個大隊を率いて多勢の中国軍を撃破し、金鵄勲章功三級をもらった。少佐の身でしかも生存者が授与されるとはまことに稀有のことである。
建国まもない韓国にあっては随一の勇将といっていい。そういう人からじかに教えを受けるのは、
「とほうもない幸運だ」
と参謀長の崔慶禄大佐がいった。
金錫源は光復後、陸軍大佐として第1師団長に任じられ、韓国陸軍の建設に努力していた。日本の古武士をおもわせる剛直な性格で知られていたが、李承晩大統領に直言をおこなったため不興を買い、解任され予備役に編入されていた。前にふれたタラ事件で李承晩に抗議した第1師団長とはかれのことである。
しかし、かれは不穏な情勢を察して大田で義勇軍を組織訓練し、開戦時には軍部の要請で現役に復帰し首都師団長となっていた。
かれが錫元に目をかけたのは、同名という親しみのせいだけでなく、太平洋戦争末期の日本軍の少年兵たちをみていたこともあって、いたずらに若者を死地に送りたくないということもあったであろう。
韓国軍は押されっぱなしである。
将兵の多くが外出、外泊していて週番しか残っていない日曜日の明け方に奇襲を受けたうえ、装備にひらきがありすぎた。
余談ながら、開戦時の両軍の兵力・装備についてのべる。
北朝鮮軍の地上兵力は、7個歩兵師団11万1千人、欧州で勇名をうたわれたソ連のT−34戦車242輛を中心に編成された1個機甲旅団、そのほかに1個機械化旅団があり、火砲は122mm榴弾砲、120mm迫撃砲を最大に全軍に1610門が装備されていた。
これに対して、以前にもふれたが韓国軍は8個師団をそろえていた。とはいえ、そのうちの4個師団は2個連隊編成という旅団程度のものであり、戦車はなく、手持ちの2.36インチバズーカも57mm対戦車砲もT−34には通じなかった。
北朝鮮の航空兵力は戦爆あわせて211機。韓国は練習機と連絡機22機しかなかった。
さらに、余談。
日本の一部進歩的知識人は開戦当初から、
「南朝鮮の北侵によって戦争ははじまり、北朝鮮がそれをはね返した」
と主張していた。
かれらは、アメリカ大統領特使のダレスが6月中旬に38度線の視察をおこなったことを北侵謀議の証拠とし、在韓米軍の撤退すら先制攻撃を偽装するためのものであるとした。
アメリカのI・F・ストーンは、G・ガンサーがGHQ高官2人と日本の日光で昼食中、かかってきた電話にでた1人が「南朝鮮軍が北朝鮮軍を攻撃した」といったことを「秘史朝鮮戦争」に書いたが、杉捷夫東大教授はそれをもって韓国の北侵の証拠とした。
また、藤原彰・遠山茂樹・今井清一は共著「昭和史」において、北朝鮮軍が侵略したという理由で韓国軍が侵攻したとし、のちには、26日に北朝鮮軍が反撃して38度線を越えた、と書きくわえた。
「まだ若いおまえを前線に出すわけにはいかない。わしの副官がわりに連絡兵をしながら勉強しろ」
そういって、戦闘のあいまにみずから戦術や英語の初歩について講義をした。
「基礎は叩きこんでやる」
あとは自分で考えることだ、ともいった。
金錫源は、日本の陸軍士官学校を卒業したあと、北支戦線で活躍し、山西では一個大隊を率いて多勢の中国軍を撃破し、金鵄勲章功三級をもらった。少佐の身でしかも生存者が授与されるとはまことに稀有のことである。
建国まもない韓国にあっては随一の勇将といっていい。そういう人からじかに教えを受けるのは、
「とほうもない幸運だ」
と参謀長の崔慶禄大佐がいった。
金錫源は光復後、陸軍大佐として第1師団長に任じられ、韓国陸軍の建設に努力していた。日本の古武士をおもわせる剛直な性格で知られていたが、李承晩大統領に直言をおこなったため不興を買い、解任され予備役に編入されていた。前にふれたタラ事件で李承晩に抗議した第1師団長とはかれのことである。
しかし、かれは不穏な情勢を察して大田で義勇軍を組織訓練し、開戦時には軍部の要請で現役に復帰し首都師団長となっていた。
かれが錫元に目をかけたのは、同名という親しみのせいだけでなく、太平洋戦争末期の日本軍の少年兵たちをみていたこともあって、いたずらに若者を死地に送りたくないということもあったであろう。
韓国軍は押されっぱなしである。
将兵の多くが外出、外泊していて週番しか残っていない日曜日の明け方に奇襲を受けたうえ、装備にひらきがありすぎた。
余談ながら、開戦時の両軍の兵力・装備についてのべる。
北朝鮮軍の地上兵力は、7個歩兵師団11万1千人、欧州で勇名をうたわれたソ連のT−34戦車242輛を中心に編成された1個機甲旅団、そのほかに1個機械化旅団があり、火砲は122mm榴弾砲、120mm迫撃砲を最大に全軍に1610門が装備されていた。
これに対して、以前にもふれたが韓国軍は8個師団をそろえていた。とはいえ、そのうちの4個師団は2個連隊編成という旅団程度のものであり、戦車はなく、手持ちの2.36インチバズーカも57mm対戦車砲もT−34には通じなかった。
北朝鮮の航空兵力は戦爆あわせて211機。韓国は練習機と連絡機22機しかなかった。
さらに、余談。
日本の一部進歩的知識人は開戦当初から、
「南朝鮮の北侵によって戦争ははじまり、北朝鮮がそれをはね返した」
と主張していた。
かれらは、アメリカ大統領特使のダレスが6月中旬に38度線の視察をおこなったことを北侵謀議の証拠とし、在韓米軍の撤退すら先制攻撃を偽装するためのものであるとした。
アメリカのI・F・ストーンは、G・ガンサーがGHQ高官2人と日本の日光で昼食中、かかってきた電話にでた1人が「南朝鮮軍が北朝鮮軍を攻撃した」といったことを「秘史朝鮮戦争」に書いたが、杉捷夫東大教授はそれをもって韓国の北侵の証拠とした。
また、藤原彰・遠山茂樹・今井清一は共著「昭和史」において、北朝鮮軍が侵略したという理由で韓国軍が侵攻したとし、のちには、26日に北朝鮮軍が反撃して38度線を越えた、と書きくわえた。
これは メッセージ 1193 (toapanlang さん)への返信です.
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