竹島

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鬱陵島検察日記 -1882年ー李奎遠

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/04 23:08 投稿番号: [9761 / 18519]
引用:
1868年、日本は明治維新。そして鬱陵島が問題となるのは1881年5月22日、江原道監詞が鬱陵島捜討官(朝鮮は1696年以後、3年に一度巡察使を、当時無人島であった鬱陵島に派遣)からの報告を受け、日本人7名が鬱陵島で木材を伐採していると、報告した事から始まっている。この時朝鮮は日本の外務省に抗議し、併せて副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して鬱陵島に派遣する事になった。
李奎遠が鬱陵島に赴くのが1882年4月。そこで李氏朝鮮の第26代国王・高宗(1863 - 1907在位)は、彼に対し、「松竹島、芋山島は鬱陵島の傍らに在り、しかしてその相距たる遠近いかん。また何れの物有りや否や」と下問している。この高宗の質問に対して李奎遠は「芋山島は即ち鬱陵島にて、芋山は古(いにしえ)の国都の名なり」とし、「松竹島は即ち一小島にて、相距たること十里(今の2Kmに相当)、その産するところは即ち檀香と簡竹」と、答えている。『世宗実録』1年8月条に記された「鬱陵島の傍らに小島あり」の小島と同じく、何れも鬱陵島より東に2Km程度離れた現在の鬱陵郡蔚陵邑道洞里竹島のことで、今の竹島とは全く関係が無いのである。『東国輿地勝覧』の于山島鬱陵島条には松島、竹島の文字は無く、松島、竹島、芋山島の三島を鬱陵島と称したのは『東国文献備考』からである。
その高宗の不確かな鬱陵島理解に対して李奎遠は、「或いは松島、竹島と称して鬱陵島の東に在りとす。而(しか)してこれ松竹島以外に別して松島、竹島あるに非ず」と答え、松竹島(現道洞里竹島)以外に松島や竹島と言う島は存在しないと、高宗の誤りを正している。この高宗と李奎遠の鬱陵島に対する認識の差は、『東国文献備考』の記述を通じてだけ鬱陵島周辺の地理を認識していた高宗と、実際の鬱陵島の様子を伝聞し、現実的な鬱陵島像を確立していた者との違いといえる。
そしてその違いは1882年6月5日、鬱陵島から戻った鬱陵島検察使・李奎遠の帰還によって一層明確となる。李奎遠はその啓文で、「晴明の日、高きに登りて遠眺すれば、即ち千里を窮(きわ)むべくして、更に一挙の石一撮の土なし」とし、鬱陵島検察日記には「四望して海中にうかぶに一点の島嶼(とうしょ)の見形無し」と記している。これは鬱陵島の最高峰である聖人峰(984m)の頂上に立ち、四方を望見した結果を述べた部分で、そこからは島影らしきものは何も発見できなかった。これは、李奎遠の地理的正確さを改めて実証しただけでなく、1880年代の朝鮮の人々には、現在の竹島がその視野の中に入っていなかった事実を証明するものである。
Okino:
李奎遠は鬱陵島を調査して、松島(トクト)なんて島は鬱陵島近海には無いと断言している、そして鬱陵島属島は、主として2島を上げている、一つは島頂(観音等)、一つは竹嶋である。1880年代、朝鮮半島人は松島(う山島)の認識は無く、存在場所もしらなかったのです。
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