竹島渡海免許と斉藤豊仙
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/05/08 15:58 投稿番号: [9346 / 18519]
半月城です。
竹島(鬱陵島)渡海免許について議論を深めたいと思います。
te2222000さん、Re:9298
> 素人の勝手な空想になりますが、実は竹島渡海免許にも赤い判子が押されていたために斉藤豊仙はそれを「朱印」と表現したまでで、日本史上の「朱印」という用語とは関係ないということがあるかもしれません。
『隠州視聴合記』の著者である斉藤豊仙が見たであろう文書は、実は竹島渡海免許の写しなので、そこに「赤い判子が押されていた」可能性はないようです。
竹島渡海免許は、幕府老中の連署という形で鳥取藩主である松平新太郎にだされました(注1)。そのオリジナルの文書は鳥取藩で重要書類として大切に保管されたでしょうから、それを斉藤豊仙が目にできるチャンスはなかったと思われます。
さらにいうなら、そのオリジナルにも「朱印」はなかったようで、後日、鳥取藩は竹島(鬱陵島)渡海に関する幕府への回答書において「右島江 渡海付 御朱印は無御座候・・・被成御奉書候」として「朱印」はなかったと答えました(注2)。「朱印」は特別な場合に使用されたので、それは特別な意味をもちます。老中の奉書すら朱印ではなかったようでした。
村川家は竹島(鬱陵島)渡海時にその奉書の写しを携行したようで、そうした事情が、村川家が朝鮮へ漂流したときに明らかにされました。それを池内敏氏はこう記しました。
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寛永14(1637)年6月29日、竹島渡海を終えて伯耆米子に帰ろうとした村川市兵衛船の30人が朝鮮半島に漂着した・・・。対馬藩の公式文書には「伯耆ノ国之船、竹嶋ニ商売ニ参候船、朝鮮蔚山ニ流著候」「磯たけニ参候船、朝鮮ニなかれ候」などと記載された事件である。
この漂流民たちを取り調べた際に、その所持品の中に「松平新太郎殿へ参候 御連署之写」のあることが対馬藩の記録に残されている。これは右の「竹島渡海免許」の写と考えてよかろう。竹島渡海にあたって写を携行したのである(注3)。
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斉藤が竹島(鬱陵島)渡海免許の写しをみて「村川氏、官より朱印を賜り、大舶を磯竹島へ致す」と記録し、村川家の大船を朱印船のように考えたのは、朱印状の形式をよく知らなかったこともあるでしょうが、さらに下記の事情もあったものと思われます。
前回書いたように、斉藤は竹島、松島を隠州所属と考えていなかったようです。te2222000さんは『隠州視聴合記』の解釈で「竹島、松島は隠州に含まれる」という説について疑問点を述べておられましたが、そのとおりで、一般にも異論はほとんどありません。
te2222000さんは、私の半月城通信を読んでおられるとのことなので、あるいはお読みかもしれませんが『隠州視聴合記』における竹島、松島が隠州に含まれないという解釈は、日本、韓国政府双方で一致しているようです(注4)。
日本政府は、竹島が隠州に含まれないからこそ「此州」をわざわざ「この島」と読み、それを日本の西北の限界としました。もし、竹島が隠州に含まれるなら「此州」が「隠州」であっても一向にかまわないので、あえて「此州」を「この島」などと強弁する必要はありません。くだんの下條氏ですら、竹島が隠州に含まれるとの我田引水はしていないようです。
なお、竹島、松島が隠州付属でないのなら、どこの所属でしょうか? 天領? 当時、隠州自体が幕府直轄地になり、松江藩に預けられました。それと別に、さらに竹島が別の幕府直轄地であったとは考えられません。そもそも、幕府自体「竹島一件」の際、竹島、松島をてっきり鳥取藩所属と思いこんでいたくらいでした。
封建時代、領主なき土地はありえません。また、村川家などの町人が領主になれないのはいうまでもありません。そうなると、斉藤豊仙は竹島、松島を異国と考えざるをえなかったのではないでしょうか。
(注1)<日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺>
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/naimu_ukagai.pdf
読み下し文は半月城通信<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.566
(注2)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000, P53
(注3)池内敏「竹島渡海と鳥取藩」『鳥取地域史研究』第1号,1999,P32
(注4)半月城通信<『隠州視聴合紀』の読み方>
http://www.han.org/a/half-moon/hm091.html#No.651 target=new>htt
竹島(鬱陵島)渡海免許について議論を深めたいと思います。
te2222000さん、Re:9298
> 素人の勝手な空想になりますが、実は竹島渡海免許にも赤い判子が押されていたために斉藤豊仙はそれを「朱印」と表現したまでで、日本史上の「朱印」という用語とは関係ないということがあるかもしれません。
『隠州視聴合記』の著者である斉藤豊仙が見たであろう文書は、実は竹島渡海免許の写しなので、そこに「赤い判子が押されていた」可能性はないようです。
竹島渡海免許は、幕府老中の連署という形で鳥取藩主である松平新太郎にだされました(注1)。そのオリジナルの文書は鳥取藩で重要書類として大切に保管されたでしょうから、それを斉藤豊仙が目にできるチャンスはなかったと思われます。
さらにいうなら、そのオリジナルにも「朱印」はなかったようで、後日、鳥取藩は竹島(鬱陵島)渡海に関する幕府への回答書において「右島江 渡海付 御朱印は無御座候・・・被成御奉書候」として「朱印」はなかったと答えました(注2)。「朱印」は特別な場合に使用されたので、それは特別な意味をもちます。老中の奉書すら朱印ではなかったようでした。
村川家は竹島(鬱陵島)渡海時にその奉書の写しを携行したようで、そうした事情が、村川家が朝鮮へ漂流したときに明らかにされました。それを池内敏氏はこう記しました。
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寛永14(1637)年6月29日、竹島渡海を終えて伯耆米子に帰ろうとした村川市兵衛船の30人が朝鮮半島に漂着した・・・。対馬藩の公式文書には「伯耆ノ国之船、竹嶋ニ商売ニ参候船、朝鮮蔚山ニ流著候」「磯たけニ参候船、朝鮮ニなかれ候」などと記載された事件である。
この漂流民たちを取り調べた際に、その所持品の中に「松平新太郎殿へ参候 御連署之写」のあることが対馬藩の記録に残されている。これは右の「竹島渡海免許」の写と考えてよかろう。竹島渡海にあたって写を携行したのである(注3)。
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斉藤が竹島(鬱陵島)渡海免許の写しをみて「村川氏、官より朱印を賜り、大舶を磯竹島へ致す」と記録し、村川家の大船を朱印船のように考えたのは、朱印状の形式をよく知らなかったこともあるでしょうが、さらに下記の事情もあったものと思われます。
前回書いたように、斉藤は竹島、松島を隠州所属と考えていなかったようです。te2222000さんは『隠州視聴合記』の解釈で「竹島、松島は隠州に含まれる」という説について疑問点を述べておられましたが、そのとおりで、一般にも異論はほとんどありません。
te2222000さんは、私の半月城通信を読んでおられるとのことなので、あるいはお読みかもしれませんが『隠州視聴合記』における竹島、松島が隠州に含まれないという解釈は、日本、韓国政府双方で一致しているようです(注4)。
日本政府は、竹島が隠州に含まれないからこそ「此州」をわざわざ「この島」と読み、それを日本の西北の限界としました。もし、竹島が隠州に含まれるなら「此州」が「隠州」であっても一向にかまわないので、あえて「此州」を「この島」などと強弁する必要はありません。くだんの下條氏ですら、竹島が隠州に含まれるとの我田引水はしていないようです。
なお、竹島、松島が隠州付属でないのなら、どこの所属でしょうか? 天領? 当時、隠州自体が幕府直轄地になり、松江藩に預けられました。それと別に、さらに竹島が別の幕府直轄地であったとは考えられません。そもそも、幕府自体「竹島一件」の際、竹島、松島をてっきり鳥取藩所属と思いこんでいたくらいでした。
封建時代、領主なき土地はありえません。また、村川家などの町人が領主になれないのはいうまでもありません。そうなると、斉藤豊仙は竹島、松島を異国と考えざるをえなかったのではないでしょうか。
(注1)<日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺>
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/naimu_ukagai.pdf
読み下し文は半月城通信<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.566
(注2)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000, P53
(注3)池内敏「竹島渡海と鳥取藩」『鳥取地域史研究』第1号,1999,P32
(注4)半月城通信<『隠州視聴合紀』の読み方>
http://www.han.org/a/half-moon/hm091.html#No.651 target=new>htt
これは メッセージ 9298 (te2222000 さん)への返信です.
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